2013年12月2日月曜日

国家とはなにか。日本国憲法を越えて

国家とはなにか。日本国憲法を越えて

独立国家が誕生するとき、いくつかの条件が必要となる。しかし、一番基本的な問題は、どのような国家であるか規定することである。
多くの場合、それは、憲法を制定し、どのような国家であるのか、宣言する。
国際基督教大学にも、その誕生時には、憲法が存在していた。(現在、大学の寄付行為というところに、形を変えて存在するようである。)なぜ、国際基 督教大学が誕生しなければならなかった必然性は、新しい人間観の摸索であった。第二次世界大戦という悲劇を繰り返さないために、人間はどのような存在であ るか、どのように活きるべきかを、日本に、世界に、訴えた。その意見に共鳴した多くの人々の協力で、国際基督教大学は、誕生した。新しい人間観の提唱であ り、明日の大学の原点となった。
いくつかの大学史を紐解くと、やはり、その大学固有の憲法が存在していたことが記されている。
明治国家が誕生する時、明治政府は、憲法を制定している。伊藤博文などは、英語で憲法草案をつくったという。
さて、明治国家を構想するにあたり、自由民権運動など、当時に新しい人間観にもとづくさまざまな動きがあった。実は、日本中で、実にたくさんの憲法 が書かれた。この原動力こそ、明治国家を作り上げる力の源泉であった。
その当時書かれた憲法の一つに、五日市憲法というのが存在する。これは、五日市で発見されたため、その名前が付けられている。その原本は、東京経済 大学図書館にある。
さて、新しい人間観、現日本国憲法も制定当時、新しい人間観を打ち出した。人権宣言や国連憲章、児童憲章など、たくさんの宣言や憲章が、新しい世界 観、人間観を提示しつづけ、その行く手を照らす、カンテラになった。
新しい人間観、世界観に基づく、日本国憲法の構想があってもよいのではないかと思う。いままで、変更できなかった背景には、天皇の問題や戦争放棄の 問題があったと思う。
日本国憲法の不思議なパラドックスは、天皇制に反対するグループの方が、現憲法を変えようとすることに、頑固に抵抗する。個人的には密かに、憲法改 正は、天皇制のあり方に触れたくない人々のよって、養護され守られてきたのではないかと思っている。この2つの相反する問題は、巧妙なパラドックスとし て、現憲法に仕組まれているのではないかと思っている。まるで、キュービックキューブのように組み立てられており、一方を動かすと他方も崩れるようになっ ている。
国旗、国歌とは、ないかと長年決めてこなかったように、日本の元首とはなにかも決めてこなかった。小渕前首相の病気という事件にたいしても、日本 は、国家をどのように管理するのかさえ、決めていないのが、現実である。
総理大臣とは、いったい、どのような存在なのか、考える必要がある。ただ、政治を行う役職であって、国家を代表しているわけでもないような気がす る。
国家を代表する 人とは、いったい誰なのか。現憲法は、どのようにそれを述べようとしているのか、もしくは、故意に述べようとしてないのかを検証す る必要がある。
三権分立の建て前をとれば、三人の人が、国家の頂点にいることになるのだが、総理大臣の名前は出てきても、他の人の名前さえ出てこない。いったい、 この国は、どのように納められているのだろうか。
日本が、新しい関わりを生み出すためには、新しい人間観、日本人観の摸索をしなければならない。
そして、その構築は、あなたの人間観 あなたの上に構築されなければならない。

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