2013年11月29日金曜日

不思議、驚き 人生への衝撃とは。

 不思議、驚き 人生への衝撃とは。


不思議 そんな感覚に囚われたことがあるだろうか。
不思議とは、とても、不思議なものだと思う.
誰もが、当たり前に思っていることを、なぜか、その人だけ不思議に思う。
不思議に思うには、不思議の思う 種 がなければ、不思議に思わない。
不思議とは なにか、答えの予感でもある。
人生のどこかで、不思議の種を、飲み込むわけでもなく、
それまでの人生と全然、無関係(のように)、突然、不思議は訪れ、人生の大きな衝撃を与えるのだ。
あたかも、不思議の種は、生まれて来る前に飲み込んで
そして、一生涯、その種を探しているのかもしれない。
そして、その種を見つけて、花を咲かせる人もいる。

発見も実に奇妙なことだ。
誰もが、不可能だと思うことをやり遂げる人がいる。
誰もが、諦めたそのことを、発見する人がいる。
だって、みんなが諦めているということは、それが、常識なのに、
それに逆らって、信じている何かがあるということですね。
トロイを見つけた人のように。
青い光を放つ、ダイオードを見つけた人のように。
ラジウムを見つけた人のように。


映画のつくる。
小説を書く。

黒澤明監督が映画をつくるとき、とことんシナリオを話し合ったそうですね。
架空の話なのだから、どんなことだっていいじゃないかと思うけど、
映画には映画の、小説には小説の その場面の必然がある。
ドキュメンタリーではないのだから、作者の自由といえるのかもしれないが、
その場面に相応しい 場面、状況を、必死で探し求める.
それは、作者の自由なはずなのに、作者も、その場面に相応しいものを探す。
それが、あたかも、どこかに存在しているかのような、”堅牢な実在”を
探し求める。
その”堅牢な実在”とは、どこにあるのか。
それは、3次元のどこにもないにも関わらず、どこかにある。


見えない世界に、実在を求める 不思議がそこには、ある。


解かるということ。

ヘレンケラーがサリバン先生に出会って、世界に名前、言葉があることを知る、
その瞬間が、あった。
水 その存在と 水 という 言葉が、結びついた瞬間である。
そこから、世界は、次々と開かれていった。
なぜ、水というものに、水という名前があることがわかったのだろうか?
サリバン先生が、一生懸命教えたから ということだが、
なぜ、人は、ことば、名前という存在を知っているのだろうか。

人は、誰かに教えられた言葉、名前以外の言葉をしらないのだろうか。
次々を、誕生する、新しい名前、ことばな、なんなのだろうか。

なぜ、こころは、外なる世界を、名前、言葉をもって、捕まえることができるのだろうか?
ことばや名前がなかったら、こころは、どんな世界になってしまうのか。

そもそも、言葉とは、なんなのか。
物理の世界に存在しない、形も、手にとって見ることのできない不思議なもの。
その奇妙な不思議なものをもって、こころは世界を捕まえる。

煩悩を乗り越える



人間の生存に必要な生きるためのシステム。
人間は、自らの意思が、確立する以前に、生き始めなければならない。
だから、人間に意思を越えた生存のシステムが必要となる。
この生存のシステムは、快苦のシステムでもある。
この快苦のシステムが、まるで、意思の前に立ちはだかる 
フロントプロセッサ(コンピュータの基本機能とは別に、漢字変換などを行うために組み込まれた機能)の
ように、まず、最初の反応を行う。そして、それは、ほとんど吟味されることなく、決定事項として
処理されていく。
この処理は、フロントプロセッサの反応とCPUの反応と同時のようにみえるため
あたかも、自分の判断のようにみえるが、じつは、フロントプロセッサの反応だったりする。
この見極めは、結構難しい。ほとんど見分けがつかない。

ある面、意思のシステムより、最初から、あるシステムなので、そこから、逃れることが難しい。

この快苦のフロントプロセッサ機能を、まず、横に置くことができれば、人間本来の意思が
かなりすっきりすることになるかもしれない。
人間は、確かに、生死を越えた判断や、快苦を越えた判断もすることが出来る場合もある。


快苦システムは、常時肉体の影響をうける。
この快苦のシステムを、自らの内から、快苦のシステムで、今生きているのか
自分の明確な意思で生きているのか、餞別できるようにあると、きっと、すばらしい世界が
開くに違いない.
自分の明確な意思の他に、生じる生存のシステム空間に、実は、煩悩は潜むのである。

             (by kimito 12/16/2003 いろいろ学んだことなど、整理して書こうと
                            思うが、難しいですね。

確信とはなにか




奴隷制度が、あたりまえの時代にあって、奴隷解放を宣言することは、非常識である、
しかし、そうしなければならない、確信が存在する。
その”確信”は、その”世界”存在しない。
その”確信”は”どこか”に存在するのです。

それは、この世の”存在”にまさる”重さ”を持っているのである。

農家の娘が、フランス王の下に出かけていくのも
まわりに誰もの驚きながら、そして、多くの者が、諌めたのであろうに
彼女の内なる”確信”をもって行かせるのである。
その”確信”は、この世の”どこにも”記載もなく、痕跡もないものである。
しかし、それは、”どこか”に存在するのである。

それらの”確信”は、”ふわふわ”したものではなく
世界を変える”不動の支点”のようなものである。
その”支点”を支えている存在が、”神”ある。

現在社会の抱える様々な問題。
  環境悪化、温暖化、気候変動
  民族、宗教紛争
  南北問題、エイズやSARS といった問題

  それらは、この”世”に存在する多くの問題
  その問題を、ひっくり返す”支点”は、”どこか”に存在する。
  この世界の”あらゆる活動、思考、価値を越えて”
  それらを乗り越える、”支点”がどこかに存在する。

  ”反発”や”服従”を越えた
  新たな”確信”の発展や到達が必要なのだ。

               (by kimito 12/14/2003 赤穂浪士の討ち入りの日に
                              サダムフセインが、捕まったという知らせを
                              聞きながら。)

神の国は近づけり

      われらは、どこに住んでいるのか。
      われらの内に、何がすんでいるのか。
      われらの人生の時を、食いつぶしているものは、何ものぞ。
      われらの人生を、われらの元に取り戻せ。

神の国は近づけリ。

人類は、かつて、この言葉を何度も聞いた。
そして、最後の審判が訪れるのだとも聞いた。
また、この世は末法の世だとも聞いた。

長い間、空を飛ぶことも出来なかった人間は、最初の12秒の飛行の後
瞬く間に、空を支配し、月までも到達した。
岩を砕くダイナマイトが、発明されると瞬く間に、たくさんの爆発物が生まれた。
物と持ち上げるシャベルカーやブルトーザーが山を砕き、谷を埋め
この世のすべてのものを支配した。

それを人は科学の力と言った。
科学の力があれば、快適な生活ができるはずだと、
多くの人が信じていた。

科学の力を持って、人類は、神の国ごとき世界をつくりあげることができるようになったのだろうか。
伝説は伝えている。
天に届くほどの塔を人は造った。
しかし、神はそれを打ち砕き、人々の言葉をばらばらにした、と。


神の国は近づけリ。

今、確かにそのように呼びかける声が聞こえる。
いや、今も、昔も神の国は、”そこ”にあった。
けれども、誰も、その存在を見ようとしなかった。

今も、昔も、電波はあった。
しかし、それを検知に、利用することが無ければ、電波は存在は人に知られることもない。
ニュートリノという”もの”の存在を検出するものは、地中深くに埋められた水槽しか
その存在をすることは出来ない。しかし、宇宙の初めより、ニュートリノは存在した。
私たちの知らない、または、証明できないたくさんの”もの”がこの宇宙には溢れている。
それを、人類はまだ、知る術を知らないだけなのだ。

なぜ、人は、本を書くのだろうか。
誰も見たこともない、箒に乗ってボールを追いけるゲームが、なぜ、小説の中では生き生きと
存在するのだろうか。そこには、紙とインクしかないと言うのに。
だれも、見たこともない主人公の少年の活躍を、心躍りながら、読むのであろうか。
その主人公が実在していないと知っていてもである。

英語を知らない子供がその原作を手にとって見ても、なんの意味もないただの”もの”にすぎない。
秤やレントゲン、MRIというべき、先端科学の機械をもってきても、そこに、主人公の冒険を
みつけだすことは出来ない。
作者のどこに、その世界があったのだろうか。
読者のどこに、その世界はあるのだろうか。

”そこ”には、確かに、リアルな世界が存在し、感じているのだ。
しかし、誰も、その世界を、手にとることは出来ない。

映画監督の黒澤明が映画をつくる時、なんどもなんどもシナリオを作るために、討議し、
考えて考えて、造ったという。
そのシナリオは、彼の頭の中にある、”なにか”を求めて求めて、書き直された。
しかし、その”なにか”とは、それほどまでに、”実体”のある何かであったのだ。

人類の歴史の中で、”民主主義”ということばが生まれたその瞬間、いったい何が
起こっただろうか。
人類の歴史の大変革が生まれたに違いない。
江戸という時代から明治という時代になったその瞬間、時はただ連続して流れて行ったに
過ぎないが、時代は、変革というべきうねりを持って、変わっていった。
”民主主義”それは、ただの言葉にすぎない。それはただの概念にすぎない。
しかし、たくさんの王様はいなくなり、多くに国で選挙をすることが一般的になった。
この”民主主義”という言葉に、いったい、どのような”世界”が孕まれていたのだろうか。
なぜ、それほどまでに世界を変える力になったのだろうか?

ここで、あえて、もう一度、かの言葉をここに呼び戻そう。

神の国は近づけリ。

それは、どこにあるのかと問う声もする。
それでは、遭えて、その問いに、問わなければならない。
箒に乗って、ゲームをする少年はどこにいるのか。
民主主義は、どのように存在するのか。
音楽や文学はどこに存在するのか。

今後、民主主義に変わる言葉が、登場するに違いない。
それは、新しい世界のあり方を導く言葉になるに違いない。
その時、神の国はそこにある。
しかし、いまも神の国はそこにある。

なぜなら、人は、それを感じる力があるからである。
箒に乗った少年の世界を、映し出す”心の世界”がそこにはある。
そこには、なんでも映し出すことが出来る。
毎日ニュースで報じられる凶悪事件、政治の混乱、国際的なトラブル
戦争、拉致、原子爆弾、年金、医療の問題。
日々発生するたくさんの出来事を、心は受け止め、感じている。
もし、このこころの世界に、正しい番人がいたら、きっと、世界の混乱は
瞬く間に、無くなっていくに違いない。

しかし、今は、”そこ”は、扉も無く、放任された、廃屋のようである。
暴力や嫉妬、傲慢、恨みが住み着いても、誰も、追い出すすべも知らず
僻み、悪口、愚痴を言っても、後悔することも無い。
それが、こころの自由、個人の自由として放置された。

「おーい、ご主人様は、どこかにいるんですか。」
大声で呼ぶと、どこからとも無く、現れて、
「ここに住んでいるのは、あなたですか」と問うと
「そうです」と答えるが
「いったい、この荒れ放題の家はどうしたのですか」と問うと
「暴力、僻み、悪口、恨みたちに乗っ取られてしまって、自分ではどうすることも出来なんです」

それをもって、神の国に近づくことは出来ない。
「絶対、そんなところに近づくんじゃないぞ。」
「近づいたらただじゃおかないぞ」
「そんなところに近づくと、おめえ、えらい苦労することになるんだぞ。」
「もし、近づくことを止めたら、君を世界の王にしてあげよう。」
脅し、甘言等、巧みな言葉で、引き止めるに違いない。
かつて、パピラの木下で、悟りを求めた人に訪れたように。
かつて、砂漠を40日間彷徨った人に訪れたように。

それでも、言おう。

神の国は近づけリ。

内なる廃墟に確かな住人として住むことを決意したものには、神の国は訪れるのである。
多くの居候をたちを追い出す術を身に付けたものには、神の国は訪れるのである。

聖書を読んで、イエス様の生き方に感動するなら、神の国は近づくのである。
仏典を読んで、お釈迦様の生き方を感じるとる人は、神の国は近づくのである。
しかし、暴力、愚痴、僻み、傲慢、怠惰の住む廃墟に素手で突き進むのでは、
瞬く間に罠に落ち、とらわれの身になってしまう。
それほどまでに、廃墟の住人は、百戦錬磨のつわものばかりである。
われらも、武器を持たねばならない。
武器としては、十字架や数珠では頼りないかもしれない。
それは、傲慢を見破る法力である。
それは、怠惰を見破る法力である。
それは、愚痴を見破る法力である。
それは、108の煩悩を見破る法力である。

それは、小学生の頃、一生懸命に漢字を覚えたように、
それは、九九を一生懸命に覚えたように
傲慢を見破る法力を覚えなければならない。
怠惰を見破る法力を覚えなければならない。
愚痴を見破る法力を覚えなければならない。
108の煩悩を見破る法力を覚えなければならない。

その法力を持って、廃墟の住人の繰り出す、荒業を見破らなければならない。
パピラの木の下で見破ったように。
砂漠の地で、見破ったように。

その法力こそ、神の国に近づく武器である。
そして、遭えて、言おう。

神の国は近づけリ。
心の廃墟から、108の居候が心静かな、良き友となリ、
本来、住むべき人が生活を始める時
そこに神の国は訪れるのである。

しかし、
108の煩悩という”つわもの”は、あなた一人の内にいるのではなく、すべての人の内にいて
時として、徒党を組み、時にして、裏取引をし、人類を陥れるべき、力をなしている。
それは、多くの集まりをなって、圧倒的圧力として、個人に圧し掛かっているのである。
それは、時として、科学の確信を逆手にとって、あなたに攻め込んでくるのである。
それは、時として、聖書や仏典、コーランの言葉を掲げて押し寄せるのである。
それは、時として、憲法、世界人権宣言、国連憲章の精神を武器に、思考を停止させようとするのである。
時に同情で、時に誘惑で、時に脅しで
108の煩悩も、108の法力をもつ 百戦錬磨のつわものである。
あなたが怒り出すとき、既に、この法力のとりこになってしまったのである。
もう、何もしたくないと内に閉じこもる時、この法力の罠にかかっているのである。
私は、悪くない、絶対に悪くないと、言っているとき、108の煩悩は、してやったりと思っているのである。

われらの人生の応援団はまるで、108の煩悩のようである。
そして、いつもしゃしゃりでてきて、ご主人様になにもさせまいとしているのである。
ご主人様は、赤ちゃんの時にそうだったように、寝ていてください。
私達が、全部しますから、安心して寝ていてください。
判断を仰ぐことはいたしません。
怒りには、怒りで応えておきましたから。
誘惑がきたので、ちゃんと乗っておきましたから。
全部全部ちゃんと私達だけでやっておきましたら、ご主人様は、ゆっくりお休みください。


だからこそ、
私たちにも、法力が必要なのである。
その最初の法力は”こころをこころでつかまえる”訓練から始まると言われている。
「こころをこころで、つかまえる」 ことが出来ますか。
108の煩悩の荒業を見破る、最初の一歩である。

(by kimito 12/7/2003
イラクの地に散った二人の日本人外交官の葬儀の知らせを聞きながら)


PS: 黒澤は、どこに住んでいるのだろうか。
    黒澤も廃墟に住む住人なのである。
    それは、黒澤に声をかけてみればわかることなのである。
    この声に応えて顔を出すのは、いったい、黒澤の真我であろうか?
    善我であろうか?

    ガンジーのように雄雄しく、気高く生きているのであろうか。
    イエス様のように、何も求めず生きているのであろうか。
    お釈迦様のように、執着から離れているのであろうか。

    黒澤の住処から顔をだす、様々な煩悩。
    黒澤の真我や善我は、奥に隠れて、なかなかその出番がない。
    むしろ、108の煩悩がしゃしゃり出て、次々と、要件をこなしていく。
    この要件をこなすということは、黒澤の人生を使っているということなのである。
    私の人生が、私の煩悩に食われていることなのである。

    この煩悩には、大きく四つに区分されるという。
    のんびり、なにもしたがらない、のほほんと幸せ気分ですごしているのが、
    黒澤のタイプである。
    世界は平和で、乱されたくない。そんな気分の煩悩が、ほんとうに巧みに
    黒澤の人生の時を、ムシャムシャと食べているのである。

    21世紀になって、黒澤公人の真我は、人類のために何かしたい、できることを
    なしたいと、心の中から叫んでいるに違いない。
    しかし、煩悩の巧みな慰め、脅しによって、真我が自由に生きることができない。

    煩悩の巧みさは、その善我、真我の存在をその人に知らしめない、巧妙さを
    もっていることなのだ。

    されど、私の真我は、叫ばなければならない。

    煩悩の罠を見破り
    自らの善我を励まし
    自らの真我を信じ

    神の国は近づけリ。

    しかし、神は言われる。
    廃墟の中の煩悩を打ち静め
    あなたの心に神の光がさんさんと輝く 神の宮にするのは、
    一人一人の責任であると。
    そのための力を、私は、与えているのだ。

    そして、求めるならば、与えよう。
    生きる勇気を。
    生きる力を。

    かつて、農家に生まれた少女が、イギリスに立ち向う勇気を与えたように。
    かつて、糸車一つもって、イギリスに立ち向ったように。
    
    さあ。伝えに行くがよい。
 
    神の国は近づけリ。と。

    かつて、ローマから帰ろうとするペテロに、主がいわれたように。
         あなたが、行かないのなら、私が行こう。

    かつて、日本からの招きを聞いて、和上が言われたように。
         弟子達がいかないのなら、私が行こう。

    黒澤が戸惑う理由は、なんなのか。
    なにを恐れているのであろうか。

    煩悩の巧みな罠を見破らなければならない。

    福音を伝えに行こう。
    誰の中にも、真我と善我が存在することを。
    その確信を、忘れさせたものの正体を暴かなければならない。

    お釈迦様が悟りに至ろうとするときも
    イエス様が、荒野を彷徨い、すべての誘惑を捨て去ろうとしたときも
    人間に潜む煩悩は、素直に出て行くわけではない。

    しかし、神への確信が、手がかりである。

    神の光が、心に差込むとき、廃墟のように、無色、じめじめ感は、一掃され、
    真我 住まう 神の宮が、そこに輝くのである。

    そして、私が、言わなければならないこと。

    誰の中にも真我が存在し、
    その真我に至るためには、善我を育まなければならない。
    善我を育むためには、煩悩の罠を見破らなければならない。
    煩悩は、ほとんど、自我と同化して、その正体を見破ることは難しい。
    しかし、煩悩を見破る法力は存在し、整備されている。
    煩悩の正体が、徐々に明らかにされている。
    いままで、ほとんど、見分ける方法も無かったのに、
    108の煩悩の正体が、明らかにされてきている。

    それゆえに、神の国を、わがこころの中に打ち立てることも不可能ではない
    時代になった。

    だから、
    神の国は近づけリ と多くの人に伝えなければならない。

    (by kimito 12/8/2003 日本の未来を信じて、アメリカとの戦争に突入した日によせて
                  
     かつて、日本人は、アメリカと戦って負けた。
     アメリカは、原子爆弾を2つ、日本に落とした。
     人類の歴史の中で、戦争で使われた 2つの原子爆弾。
     そのことに、とてもショックを受けたアメリカ人がいた。
     その名は、ICUの正門から続く、桜並木に名を留めている。
     それは、日本がアメリカと戦った事実の証。
     それは、平和を希求することが、人類の本来の願いであることの証。
 
     あなたの人生は、あなたの真我ではない、何かにぶん取られている。
     あなたの真我は、人生の時間を、真我に取り戻す時が来る事を待っている.
     あなたが、自分の人生を、真我に取り戻す時、人生は、光輝きだす。
     それは、神と呼応するこころなのだから。)

     神の力とは、真我生きるもの、勇気を与える力である。
     

PS2: 煩悩とはなにか という問題がのこりますね。
   こころの実態が、明確に解明されないかぎり、煩悩を論じる足場がないというのが、
   現実でしょうね。
   こころは、なぜ、意思をもつのか (この意思とはなにかという問題にも突き当たりますが。)
   こころが意思をもつならば、こころの分身(サーバント)的な煩悩も意思を持つと考えても
   いいのかもしれません。(黒澤にとても、説明できることがらではありませんが。)

   赤ちゃんは、まだ、自分の意志などを確立できませんので、生命維持装置的な役割として
   本能ともいうべき機能が働きます。
   それが、煩悩に変わるのかは、よく判りませんが、成長する過程で、様々な刺激をうけます。
   この様々な刺激によって、こころから、煩悩が生じるかもしれません。
   この刺激自体が、回りの大人の煩悩から発せられているので、その刺激を受けた ”こころ”は、
   煩悩が成長していき、真我、善我にかわる 地位を確立していくことになるのでしょうか。

   しかし、それだけでは、というわけで、きっと、教育、しつけなどという問題と通して、真我、善我
   を育てるという試みがされているのかもしれません。

   しかし、社会は、煩悩的刺激にあふれているので、通常、真我、善我が、自己確立していくのは、
   現実問題としては、なかなか難しい。
   しかも、現代社会も、人間の水準と、あまり、要求していない。むしろ、煩悩にながされ、あまり、
   正しい(この言葉も問題あり)生き方、真我、善我のそった生き方をすることを、あまり、好まれない
   ような社会風土である。
   
   その意味で、誰も、真我、善我 を真剣に育てることに取り組まない風潮にある。
   しかし、自我の成長とともに、煩悩(サーバント)から主権の奪還をする必要がある。

   この奪還は、キリスト教的には、洗礼 というものにあたるのだろうか。新しき名前を得て
   自らの人生を行き直す。それは、いままでの 社会や世間から流されていた自分から
   自らの意思で生きることを決意する瞬間である。

   この奪還は、古代仏教でも、戒名という形で行われたのだろうか。お釈迦さまの弟子になるとお釈迦様
   から、名前をいただき、新しい自分を生き始めるのである。
   
   この奪還は、人生の中で、思春期などと時期をへて、一人立ちするときに、起るべき時期なので
   あろう。
   煩悩的(両親、社会、地域)に頼りきりの人生から自らの人生への切替がおこるべき時期である
   のだろう。

   しかし、社会人になる、大学生になるといった 外側からの切替は、否応なしにできても、
   両親、社会的通念、地域からの切り離しを決して容易ではない。
   一生涯、親の思いから逃れられないのが、現実であるといっても過言ではない。
   
   女は結婚しなければならい。
   金がなければ、生きている価値はない。
   一旗あげて、見返してやる。
   一番でなければ価値が無い。
   男は人に使われてならない。人を使う人間になれ。
   女のでしゃばりは、不幸の原因。男を立てなければならない。
   そんなに一生懸命なにかをなっても、なんの意味もない。適当に楽しく生きるほうが、いい。
   ぼくには、そんなことは絶対できない。不可能さ。
   おれは、こんなところで、汲々として生きる人間じゃない。いつかでかいことをしてやる。
   平凡が一番。目立っちゃだめ。
   我が家は、特別な家系なのよ。世が世ならば。
   この恨みは絶対晴らしてやる。
   真我に生きているやつなんか、どこにもいないじゃないか。
   誘惑勝てるやつなんかいない。
   怒らせてみると、その人の本性が透けて見えるさ.
   寂しさに耐えられない。なんとかして。   

   こう書いてみると、映画や小説のテーマでさえあるとも思えてくる。
   そして、この命題と戦う主人公の物語が、一大 映画や小説のストリーになってくるほどの
   人生の大事業でもある。

   赤ちゃんのうちに、真我、善我が、自らの人生を生き抜くことはできない現実を考えると
   一度、すべてを、回りに委ねて、生きなければならないがゆえに、本当の人生を奪回する
   ための時が必要となる。

   この奪回には、強烈なエネルギーを必要とする。
   簡単に、できない。
   準備と訓練をする場が必要だ。
   そんな場が、教育という制度を通して生まれると、神の国は、実現するに違いない。
   真我、善我を、自らが、自らの意思によって、育む 教育の出現を、願う。

          (by kimito 12/11/2003 Unicef 創立記念日によせて。)

平和の祈り

一人の人間に何ができよう。
そう思うとき、内なる声が叫びを上げる。
すべてのことは、一人のうちより生まれ出でる。
世界の宗教となった仏教も、キリスト教も一人の人間から始まった。
インドの独立もたった一人の運動から始まった。
現代文明を支える電気も、コンピュータも一人一人の情熱から生み出された。

すべてのものは、一人の人間の内より生まれる。
人生のすべては、一瞬一瞬の自由意志の判断の連続より生まれる。

この大学に平和を祈る鐘の音が響くようになった。
平和の祈りを捧げよう。

平和とは、利己的な怒りの内より、生まれ得ない。
平和とは、利害の中から生まれる事はない。
平和とは、思想の中から生まれるものではない。

平和とは、全てを捨てて、全てを捨てつづける、
そのむこうに生まれだすものである。

いままでのいきさつを捨て去ることができるとき
いままでの富と栄華を捨て去るとき
時には、その生命さえも捨てることを求められることもある。

19歳の少女がある国の存続のために、炎の中でその生命を終える
その時にこそ、"平和"が存在した。
砂漠を彷徨いながら、愛に生きることを心に決めてしまった
かの人が、どんな理不尽さに遭いながらも、それ以外の生き方を
しなかったばかりに、丘の上の十字架で死んだその時にこそ
究極的な"平和"は存在した。

人は、すべてのいきさつを捨てなければならない。
そのいきさつを捨てて、なお、人の手に残る平和という
宝を手にしなければならない。
それは、膨大の砂の中から、金を見つけるために、多くの
砂を捨てなければならないのに似ているのかもしれない。
それは、ダイヤを見つけるために、多くの岩を砕かなければ
ならないのに、似ているのかもしれない。

人を殺すことがいけないという、ただ、それだけの理由で平和に
いたることはできない。
相手が悪く、こちらが正しいという理由で、平和に至る事はできない、

平和とは、すべてのこだわりを脱捨てた"むこう"にだけ存在する。
国家、政治、経済、宗教を脱捨てた、その"むこう"に存在する。

それほど、人間の本当の姿は、すばらしいものなのだ。
しかし、多くの国家という着物が、政治という着物が
経済という着物が、宗教という着物が、そのほんとうの
すばらしさを覆い隠す。
多くの伝承は、人間は、神に似ていると伝えている。
地球の存在を支え、生命に生きるエネルギーを与えつづけ、
自由意志という力を人類に授けた、その源に、
人は、似ているという。

"平和"、それは、人類の歴史さえも、脱捨てた"むこう"にこそ
存在する。
そして、"平和"という言葉が、この地上に存在する事実こそ
"平和"にいたる道である。
人類は、"平和"の存在を確かに認識しており、そこに目指すべきであることを
一人一人の人間の内に、刻み込まれているのである。
それこそ、人が、神に似ている、確かな証拠である。


平和を祈ろう。
暴力の嵐にも吹き飛ばされない、足場を、自らの内に築こう。
平和を祈ろう。
祈りこそ、天と地をつなぎ止める楔である。
平和を祈ろう。
人類は、平和の尊さとそこに至る道を確かに知っているのである。
すべてのいきさつを横において、かの鐘の音に、すべてを委ねるその瞬間に
光が差し込むのかもしれない。その光の差し込んだ先に見えたものが、
平和の姿なのかも知れない。
それは、祈りの内にしか見出すことはできないもの。

平和を祈ろう。
それしか、できないかもしれない。
しかし、それこそが、人間の内に、"平和"を強くし
平和を具現するエネルギーとビジョンをこの地上に溢れだす、唯一の道である。

そして、伝承は伝えている。
その"エネルギー"と"ビジョン"は、永遠の時を超えて、存在しつつけているのだ、と。


   (by kimito 4/6/2003 バクダットにたくさんの爆弾が落ちている
   というニュースを聞きながら。)

キリスト教の輝きが失われ始めているのだろうか?

近年キリスト教の輝きが急速うしなれつつある。
ICUに付けられたキリスト教の名が、いまや、重き頸木になっている。

それは、どうしてだろうか?
明治と共に、日本に流れ込んだ、キリスト教。
札幌の地に撒かれた種は、多くの大学で花が咲き、キリスト教は教育、大学の中に広がっていった。多くのミッション系の学校や幼稚園が生ま れ、大学が生まれ、女性のための高等教育が花開いてった。それは、近代日本を切り開く大きな原動力となった。女性に力を与え、若者に力を与 えた。

日本が戦争に突入していくなか、信念を持ったクリスチャンたちは、戦争を防止しようと、命を懸かけることも、多く見られた。

キリスト教は、なにか、ハイソサエティと教養の香りに包まれていた。

日本という単一民族で、国家としてのまとまりがよい国では、国の決めたことが、かなり単純に広がっていく。義務教育もほぼ100%の普及して いく。
国語や算数、理科、社会それらが、日本の伝統を切り裂いていく。
方言や村のしきたりや村の神社のお祭りを、切り裂いていく。

教育とは、あらたな価値観の取り込みなのだから、今までの慣習や文化を切切り離していくことは自然であって、方言や、村しきたり、村の神社の お祭りなどと、共存することはできない。

それは、日本の神話が、理科と共存できないのと、同義だ。
仏教や神道と、理科が共存できない。
同様に、キリスト教も、理科と共存ができない。

小学校一年生から始まる義務教育の中で、仏教や神道やキリスト教は、排除されていく。入り込む余地がないのだ。
排除された基盤に、あらたな仏教や神道、キリスト教の概念を、後から押し込めようとするのは、かかなり部難しい。

それは、イスラム教徒を改宗させるのが、難しいのと同等である。
納豆が嫌いな人に、納豆を食べさせるのと、同等である。
豚肉を食べていけないと言われた来た人に、豚肉を食べさせると、同等である。

近代科学とキリスト教や仏教などが共存するには、まだまだ、近代科学も仏教も、キリスト教も、進化が必要である。

しかし、世界は、そのような進化を待っているわけにはいかない。
人生の時は限られており、生きていかなければならない。

否応なしに、キリスト教の概念と近代科学の概念が同時に押し寄せ、まるで、椅子取りゲームのように、その人の価値観の中に、座り込もうとす る。相反する考えに子供たちは混乱する。

すると、学校へ行くからキリスト教が排斥され、混乱に陥るのだと、近代科学を否定する人たちも、登場する。
進化論の否定、地球の歴史の否定、宇宙の歴史の否定をするしかないのだ。
(近代科学もまだまだ発展途上なので、今後、いろいろな変化を遂げていくはずなので、現時点の考えが正しいと判断を下すことはできないのは、 確かだが、どうも、キリスト教の歴史観より、現実的だ。)

キリスト教の世界を、自らの内に確立し、その世界観に生きようとするには、かなりのエネルギーが必要だ。
そのために多大なエネルギーが注ぎ込まされ、教育され、叩き込まれていく。
キリスト教による教育によって、近代科学が切り裂かれていく。

中絶に反対するために、人の命を奪う事件も起きたりする。

アメリカから漏れ流れてくるキリスト教には、ハイソサエティや教養の香りが失われ、かたくなで、依怙地な宗教の匂いが伝わってくる。

クリスマスや新年に、神社や大きな駅などで、キリスト教を広報する人たちも、キリスト教を誤解の渦に巻き込んでいる。大きなプラカードや録音 機からながれる声で、義務教育を受けた日本人が、クリスチャンになろうと
思うとでも思っているのだろうか?
あのプラカードが、クリスチャンを増やすことに効果があるとは思えない。
その無骨な、無神経な、礼節のない布教を日本で行うとするキリスト教の野蛮さや乱暴さは、キリスト教を誤解させ、キリスト教をますます日本か ら遠ざける結果になっている。

なげかわしいことだ。
他にもっと、スマートな方法をしらないのか!

戦後、日本で第二次世界大戦を生き抜いたキリスト教も、義務教育と近代科学思想の壁に行く手を阻まれてしまった。けれども、それでも、キリス ト教は、ハイソサエティと教養と、愛の宗教としての香りに包まれていた。
日本に広まったキリスト教は、思慮深く、礼節に厚く、暖かな励ましの力が満ちていた。

けれども、近年、アメリカから押し寄せる、野蛮で、礼節のない、無神経なキリスト教によって、日本のキリスト教のイメージは、無残に砕かれ、 泥に塗れ、立ち上がることは出来そうもない。

日本において、大学名にキリスト教の名をつける大学はほんのわずかだ。しかも付けている大学は、かなり、特殊な大学であって、教養を目指す大 学とは、かけ離れている。
日本には非常にたくさんのキリスト教を原点にもつ大学は、非常に多い。明治時代に起源をもつ私立大学のほとんどが、キリスト教を源流にした大 学ばかりだと、いっても過言ではない。
もちろん、すべてではないと、非常にたくさんの私立大学がキリスト教を源流に持つ。多くのクリスチャンの女性によって創立された私立大学も非 常に多い。

近年、日本において、キリスト教のイメージが、輝きを失っている。
近代日本を生み出そうとした、その力も、人々の心から忘れ去れて、キリスト教は、邪教のように忌み嫌われるものになってしまった。

ICUは、その名を掲げているのだ。
モーセの掲げる杖には、大きな力があったが、
われらが掲げるキリスト教の名は、その力をうしないつつある。

日本にあった、新しい日本を生み出すためのキリスト教を必要としている。
アメリカから押し寄せる野蛮で、礼節のないキリスト教のイメージを打ち消す
愛と教養にあふれたキリスト教が今、求められている。

                    (1/6/2012 新年に寄せて)

放射能

ある原子のある特定のパターンの原子核をもつものが、安定を求めて自然崩壊する。
すると、わずかなエネルギーが発生する。
一つの原子核もつエネルギーは小さなものでも、原子核自体が非常に小さいので、
少しの物質というものでも、それなりのエネルギーをもつ。
しかし、福島の原子力発電所から解き放たれた、放射能の塵やごみ
原子炉内の燃料や使用済燃料が、水素爆発によって、四方八方に飛び散った。

日本の知っている原子爆弾は、高温、熱風など、一瞬の出来事だった。
その後、黒い雨となり、広島や長崎に降り注いたりしたが、今は、広島や長崎も
大都市として、その再生を遂げた。

しかし、原子炉や使用済核燃料から飛ばされた放射性物質は、音もなく
匂いもなく、熱線もない。

人体にどのような影響を与えるのか、何も知り得ることもなく、
未来を予測もできず。

ただただ、計測器が、マイクロシーベルトと言い、ベクレルという。

この無言の塵芥にどのように立ち向かうべきか?

無限のエネルギー、無限の電気を生み出す
魔法の箱は。

人間の命や病気への恐れ、進入できない広大な土地
それらを含んで、現在も、時が過ぎ行く

平和について



70年前には、世界中で戦争が巻き起こり、たくさんの人が死んだ。
その後も戦争は絶えることになく、続いた。
憲法によって、戦うことで、もめ事を解決しないことを決めた。
そのことは、同時に、事なかれ主義にもなっていった。
日本は平和国家なのか?

たくさんの災害も押し寄せた。
関東大震災から単純に数えても、被害のでいた地震は、数え切れず。
台風、豪雨、火事などの災害も数知らず。
日本は平和なのか。

平和なのかもしれないが、たくさんの試練が続く。
戦争がなかったから、平和なのかもしれないが、
たくさんの試練が続く。

戦争の時も、台風の時も、地震のときも
厳しい時だった。

しかし、どんなに平和な時代であろうとも
しかし、どんなに厳しい、残酷な時代であろうとも
そこに生きている人は、生き抜いていかなければならない。

宇宙から、巨大隕石が落ちようとも
巨大津波が押し寄せようとも
命ながらえれば、生きていかなければならない。

この世は、天国ではない。
お釈迦さまは、この世は忍土だといった。
イエス様は、罪人として、十字架に張り付けられて死んでいった。

しかし、生きること。
恨みや怒りや、失望や欲望に振り回されずに
絶望や孤独に苛まされずに

一人の赤子は、自力では生きることはできず。
人間が、そこに生きているためには、誰かの助けが確かにあった。

人間の中にある、愛や希望を誰がそれを選択し、生きるのか
その自由は、確かに、その人に託されている。
その託した”モノ”は、”神”なのかもしれない。

ICUのかかげる明日とは。


明日の大学 ICU
戦後の焼け野原の中から、武蔵野に一つの奇蹟が生まれ、
大きな明日が掲げられた。

新しい日本と新しい世界の建設

戦争の焼け野原から、日本は見事に復興し、この小さな国ながら、世界第2の経済力をもつまでに
なった。今は人口と国土の広い中国に抜かれて第3位になってしまったが、それでも、とんでもない
経済力を持つことになった。

国土も小さく、資源のないこの日本が発展てきた唯一の資源は、人間だった。
ほんの数十年前までは、世界中の国々は、富を生み出す植民地を求めて世界に航海し
ほんの数十年前までは、世界中の国々は、富を生み出す奴隷を求めて世界に航海し
ほんの数十年前までは、世界中の国々は、富を求めて、世界中の土地を掘り起し、石油、鉄、金 を探し回った。

戦争による大きな傷跡
原爆による大きな被害
GHQによる7年半にわたる占領

日本ができることは限られていた。
経済は破綻し、戦後、多くの餓死者をだしながら、

戦後の復興を、支えた。
確かに1ドル360円は、日本にとって、ラッキーだったに違いない。
どんでもない、優遇政策であった。

日本にあったもの それは、米100俵を、教育使うことができたから。
富を生み出すものは、なんであったのか。
それは、人間の力であった。(それは、現在の中国でも同じだが。)
人間の力を集約する力があった。

地方からたくさんの金の卵が、本当に孵り、たくさんの企業戦士に生まれ変わっていった。

その中でICUはなにを、明日として何を掲げたのだろうか。

戦争に突き進もうとする時代にあって、戦争を拒否した少数の人たち
人間の尊厳と自由を守る人間を、ICUは育てていく。

それが、リベラルアーツ教育 自由人、教養人の創出だ。

政治や経済、思想を離れ
多くの既成概念やしがらみから離れ、新しい自由人を生み出す

その既成概念やしがらみをそぎ落とす、”ナイフ”の力となったのが、
おそらく、キリスト教という概念の導入だった。

当時、未知なる不思議な概念は、日本の伝統や小中学校の教育の中で出会うこともない未知なる概念であったからこそ、
その”ナイフ”の切れ味も良かったかもしれない。

しかし、少し前までは、世界第2の経済力を 1億の民で分け合うことも可能だったが、
経済は疲弊し、
大人になって、一生涯旅行に行くこともなく、車を所有することもない、家を持つこともなく、10万円の現金を財布に入れる機会もなく、

日々の労働に明け暮れる 多くの若者を日本は、救済することもできなくなってしまった。
彼らにとって、盆や正月こそ、恐怖の月だ。
ギリギリの日銭で生きる彼らにとって、労働日数の減少は、収入の減少に直結する。
収入に余裕があれば、休暇の多さは、楽しみに違いないが、彼らには、恐怖なのだ。

奴隷でも、最低の衣食住は保障されていたかもしれないが、
現在のフリーターたちには、なんの保障もない。
携帯電話を命綱に、ただただ日々を生きている。

一生涯 旅行に行くこともなく
一生涯 車を所有することもなく
一生涯 定住する住所を持つこともなく
一生涯 選挙権も与えられず(住所がないので)

ICUが掲げる明日はなんだったのか?
日本が掲げる明日はなんだったのか?

政治の充実か
経済の充実か

なにか、明日から希望を奪い去ったのか。
1億と人間に、どのような希望やエネルギーを与えるのか
60億の人間にどのような未来を指し示すのか

様々な圧迫が差し迫り
東日本大震災のような 最後の審判が日本に襲い
地球の大きな地殻宇変動によって、東海、東南海に巨大地震と大津波の発生に怯え

原子炉から噴き出した大量の核のゴミは、日本を覆い
海に広がり
見えない恐怖にただただ、怯え
何をどのように対応したらよいのかさえ、示されず
時は徒に過ぎていく。

ICUの掲げる明日は、神と人に奉仕する。
奉仕する神は、どこにいるかもわからす
奉仕する人は、誤解の渦に巻き込まれる

かれらにのみ、神の御加護があって、世界の地獄は、彼らのせいか?
それこそ、地獄の考え方かもしれない。

明日に何を掲げるだろう。
明日、多くの被災者が元気に生きていくために必要なものは、
明日、60億の人間が平和に生きていくために必要なものは。

しかし、人智の浅はかさに、悩まされ
自然の災害、猛威は、情け容赦なく。

この世は、天国ではないのだよ。
ICUは理想を持った大学だが、理想の大学ではないんだよ。

明日、ICUが掲げる明日。
静けさと笑顔を失わない何かを、掲げることはできるだろうか。
たくさんの苦難と残酷さにも、出会うかもしれない人生に。

イエス様も、ジャンヌダルクも、ペテロさえも、突き進めば
悲しい結末になると知りつつも
突き進まざるを得ない人生
高貴な目標を掲げれば掲げるほど、
苦難が幾何級数的に増加する人生

明日の目標をどうすべきであろうか。
しかし、生きるとはそうゆうことでもある。
結末がどうであろうと、行くべき道があれば、行くしかない。

東日本大震災の中から

東日本大震災の中から


あまりの未曽有の出来事のため、言葉もない。
あまりにも大きな被害と悲劇のため、人は平安を保つことが難しい。

それでも、たくさんの小さな光の数々がまたまたいている。
助け合う力、支え会う力、励ましあう力、譲り合う力
原子力の暴走の前に、なんと無力な人間
しかし、アリのようなことしかできなくても、何年、何十年の苦闘をして、
原子力を安定し、廃棄していかなければならない。
それに立ち向かう人たち。
がれきの山に立ち向かう人たち。

人間の本当の姿が、少しだけ、垣間見れるその瞬間。
悲しみの大波も、取り返しのできない後悔も、無念さや、残念さ
憎しみと怒り、理不尽が吹き荒れるその中にあって、
誰かが、誰かを助け合い、励ましていく。

人間の新しい文明を、その上に築くことができるかもしれない。

しかし、ここでも顔を出す。ナショナリズム、日本だから、日本は特別
そんな言葉が、心の内から囁きだす。
この不思議な呟きは、新しい文明を生み出す妨げになるかもしれない。
しかし、そんな些細な問題も、新しい文明を生み出すには、巨大な邪魔な岩のようなものかもしれない。

すべてをはぎ取ってなお、残る人間の本質に、新しい文明の基礎は築かれる。
9.11の復讐と恐怖の中に、冷静に現実を見つめ、人間の本質に立ち返ろうとした人々
紛争や戦争の中にあって、憎しみや民族を超えて、平和を目指す人々

日本の平和憲法も、あの大戦争の後に生まれた。
あまりにも悲劇すぎた、あの戦争の故に生まれた。

なにかが生まれには、時が必要だという。
ICUが存在するために、あの朝鮮戦争の勃発が、もうすこし早かったら
ICUは、存在することはなかっただろうととも、言われている。

東日本大震災の中から、新しい文明は生まれだすのだろうか。
日本とか、東北とかそのような概念をはるかに超えた
キリスト教かた仏教とか、そうゆう概念も宗教も超えて
人類共通の世界精神のようなものが生まれだすのだろうか

いや、既に生まれだしている。
それを見失わずに、育てていくことが、私たちの使命なのかもしれない。
歴史の転換点の当事者に私たちはなれるだろうか?

2013年11月28日木曜日

東日本大震災から

 東日本大震災から

20世紀という100年をかけて、つくりあげてきた近代日本、そして、電気文明が、
一瞬の地震と津波によって、崩壊してしまった。その被害は甚大であった。
20世紀文明が見つけ出した 巨大な原子力エネルギーも、人類は安全に思うが儘に利用し
無限の電気エネルギーに変換すること術を身につけたと思われたのに、巨大な地震と
津波によって、おとなしい怪獣は、本来の姿をあらわし、とても、人の手に負えない怪物であることを
知らしめることになった。

首都東京の被害はさほどではなかったが、3万人以上の死者、行方不明者をだし、多くの
家屋、工場、公共施設が破壊され、日本経済に与えた影響は図りしれない。

なぜ、このような震災が起きてしまうのだろうか。
それに、安易に答えをだすことはできない。
地球の息吹、マントルのわずかな動きが、何億年とかけて、地球の姿を変えてきたように
今も、地球は変化している。1年間に数センチという規模で。
それが積み重なり、何十年も、何百年と、エネルギーが蓄えられると、それが、開放されて
大きな地震や津波になるという。
それが、あのとき、発生してしまったのだ。

災害が発生すると人類と神の関係において、いつも、人類は神に問う。
それに対して、神は人類に文書や言葉によって、何かを伝えることはない。

神に問う人類も、実は薄々感じているのかもしれない。
今の地球が、今の日本が、今のアメリカが、今のヨーロッパは、今のアフリカが
今のキリスト教が、今の仏教が、今のイスラム教が、
今の経済の在り方が
今の宗教や哲学の在り方が

このままで、いいのだろうか? その問いに、YES ということを応えることはできない。
ならば、今、20世紀文明の向こうにある、20世紀文明を横において、人類の何かを
見出すことはできないだろうか?
原子力を退けてみて、電気を退けてみて、

人間の何かに気づいた人は、少なくないかもしれない。

地球には、確かに 人類共通の世界精神が存在するはずに違いない。

文明や経済や電気や原子力の向こうに
それは、人類の心の中に。

もしかすると、東日本大震災の中から、それは見つかるのかもしれない。
微かな匂い、確かなメッセージを、世界各国の人が受け取った可能性もある。
人類の大転換点が、今、うまれつつあるのかもしれない。

それは、余りにも、大きな犠牲の上になされたことだが、しかし、歴史の
流れを変える、地球の意志、判断だったかもしれない。
もし、数十年の後、数百年の後に、人類史が書かれた時に、必ず書かれなければ
ならない、変革点、マイルストーンとして、この大震災があるのかもしれない。

あまりに大きな犠牲。それをしてもなお、人類の未来を探し出してほしいと願っている
何か、大きな存在があるとしたら、

もし、イエス様が、身にかかる災難を知って、ゲッセマネで祈ったように、
もし、イエス様が、人類に起こる災難、苦難をしっていて、それを避けられない運命と
受け入れること神が行おうとしていたら、その身を千切れんばかりに苛み、悩んだろう。
人は、イエス様のように、過去未来を見通すことができないから、ただただひたすらに
今を受入なければならないが、過去未来を見通すものには、なんとつらい過酷な世界で
あろう。いばらの道でしかない。
それも、覚悟の上で、イエスも、ブッタも、そして、マホメットも歩んでいかなければならない。
そう、ジャンヌダルクのように。
彼女は、イギリスと戦って勝ったんじゃない。彼女の戦いは、フランスとの戦いだった。
フランスと、すべての自由を剥奪されて、武器も、友も、すべてを剥奪されて、一人と戦った。
唯一の武器は、言葉だけあった。
その武器は、フランスの裁判官を悉く打ち負かしたが、それゆえに彼女は火刑によって
死に追いやれた。その悲しい出来事故に、フランスは正気を取戻し、ヨーロッパの大国として
今も存在する。

悲しい出来事や、悲劇が、人類を復活させることは、多くの歴史が物語っている。
あのペテロも、イエス様が捕えられたが故に、あのペテロになったのかもしれない。
多くの偉人に訪れる様々な悲劇。
国々に襲う様々な悲劇。

その代償があまりにも大きい。
しかし、ヨブのような力も人類には残されている。

人類共通の世界精神の発見と確立にむけて、キリスト教を乗り越え、仏教を乗り越え、イスラム教を乗り越え、経済や哲学を乗り越えて、その向こうに、人類の
確信たる、人類共通の世界精神にたどる道は、もしかすると、人類は、この
未曽有の大震災の中に見つけ出しているのかもしれない。

そして、今、大震災を目の当たりにして感じた未知なる感覚、不思議な感じ、
言葉にならない何かを、見失わないでほしい。
それが、きっと、人類共通の世界精神の発見の入り口なのかもしれないから。
その入り口を人類は今、微かに感じている。

その入り口生み出す為に、神は数十年、数百年の時の中に、その不思議な世界を
垣間見させたとは、考えられないだろうか。その時の重さと甚大な犠牲の上に
一瞬の時の中に、人類の本質を見出せと、神が言われたのかもしれない。

その言葉にも、表現もできない、不思議な何かから、
新しい日本、新しい世界が生まれだす。
人類に普遍的ななにか 人類共通の世界精神が、その不思議さという非常に曖昧なものを基盤にして、確かな精神として生まれだす。そのためには静かな思索と
丹念な探求が必要だ。

(20240220)噴煙を上げる諏訪之瀬島の御岳(資料写真)(南日本新聞社)

これはすごい。これぞ、龍の出現だあ。 元記事は、こちら。 諏訪之瀬島の御岳で爆発、大きな噴石が400m飛ぶ 2/20(火) 8:30 配信 、 https://news.yahoo.co.jp/articles/b87dabc1c98aaa17e7b74a130e095b4714...