2013年12月2日月曜日

発展と核になるもの

発展と核になるもの(ICUのアイデンティティと共通体験、共通記憶)

ICUは、アーツサイエンスに学科になって、自由になった。
そして、その自由の中をみんなバラバラに生きることになった。

ICUという大学に入学することによって、ICUの何か、核というべき
ものが、希薄になりつつある。
ICUに入学した誰ものが、ICUを感じ取る、ICUそのもののアイデンティティを
見失わないか気になるとことである。

盲人と象のように、同じものを触っていながら、みんなが違う象をいい、
すべての盲人の話をつなぎ合わせても、象の像が浮かび上がることがない。

ICU独特の入試を受けて、入学する学生は少数になってしまった。
それをもって、ICUの核(共通体験)を語ることはむずかしい。
キリスト教という概念もかなり、マイナーになってしまった。
キリスト教国のアメリカの失敗が大きな影響を落としているかもしれない。
キリスト教精神が、平和な未来、人類の未来を切り開く力をもっていると
誰も言えなくなってしまったのかもしれない。

慶応藤沢の失敗は、慶応藤沢の自由さ故に、何もしなくても卒業できてしまう
水溜りのようになってしまったことによる。
やはり、川を遡る鮭のような一途さを見出すことができなくなってしまった。
慶応藤沢で学生生活を謳歌するものもいるが、同時にどこを目指すのか、
ウロウロしているだけで、時を終えてしまうものもいる。
慶応藤沢を語ることが、難しくしている。盲人の象になっているのだ。

ICUが、ICUとしての中核をもって、学生たちがこれがICUだ言わしめるものは
なにか?

 ICUの入試をその代表にすることできない。(少数になってしまった。)
 メジャーが32にもなってしまったので、それを共通にすることできない。

 慶応藤沢にないのは、たぶん、ELPなのだろう。
 この激流を鮭のように遡ることを要求しているのだから。
 この激流を上れない鮭もいるのだが。

 ほかに、なにがあるだろうか。

 ICUをICUたらしめていて、学生がICUというと、あれといえるもの。
 まさか、バカ山、アホ山だったりしたら、少し、大学としてむなしいかもしれない。

 一つの案。
  21世紀の新教会をつくるのも、今のICUには、必要かもしれない。

  シンボルが必要、形的にも、精神的にも
 
  ダイアローグハウスや寮が出来て、大学のシンボル 教会や本館の存在感が
  ますます希薄なるかもしれない。

 メジャーが鮭が昇りたくなる急流になると面白いが、それでなくても、就職という急流を
 昇りきれない鮭が多くなっているかもしれない。あちらこちらに、巨大なダムばかり出来て
 しまった日本経済だから。

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