2014年1月31日金曜日

日本(その1)


学校の制服に込められた力

制服を着た子供は、家庭の子供じゃない。制服はきた子供は、学校の子供。
制服を来た子供は、学校ですごす。帰ってきた子供達は、家では制服を脱ぎ捨てる。
そこまで、学校は、子供たちへの影響力を、制服の通じて行うのかもしれない。
家庭の影響力も、個人の自由も、そこには、影響させない力がある。
たしかに、昔は、全てが、貧しかった。だから、学校は、ユートピアであらねばならなかった。
多くの不自由、家庭の事情。すべてを差し置いて、無け無しの金も、学校へ行くためには、使うことを優先してきた。しかし、社会が、学校を追いぬき、学校 が、社会に遅れを取っているのに、数十年前と同じように繰り替えされる。しかも、システム的な劣化が生じているかの学校の効率は、低下して、授業内容のど んどん簡略されていくことになっているのかもしれない。
PTAというシステムも、完全に崩壊している。
子供が、事件を起こすと、学校の校長先生が、取材されるのかも、不思議なことだ。
子供に対する責任を誰が、とるというのか。
学校が、そんな責任を、親から、奪っているのだろうか。
奪うなら、奪う、契約を明示したらよいのではないか。







成人式は、大人にならないための儀式(2002年1月14日の印象より)

2001年の成人式は、多くの会場で、混乱が生じた。その反省を元に、2002年の成人式は、いろいろ工夫した成人式が行われた。
しかし、考えてみると、日本の成人式は奇妙な気がする。
その日は、女性は、振袖を着たりする。まるで、人形のように。しかも、それは、親が買ったものだ。それは、まるで、永遠に自分たちの娘を、永遠の子供、人形でいて欲しいかのように。
最近、紋付を着ている男性も、目立つ様になった。紋付、現在の日常から縁遠くなった存在。それを、成人式に、持ち出すのはなぜだろう。社会人になるのを、拒絶した、人形でいようとしているのだろうか。
日常から遊離して、お雛様が、5月人形の世界をみんなで演じようとしているかのようだ。
それは、永遠の子供であることを願っているかのようだ。
この中途半端な世界観のまま、成人式を行う風潮は、混乱を招くだけかもしれない。
大人になることは、何か、本当に考える必要があるとおもう。








英語を日本語化する

日本語と英語では、発音も音素もちがうので、英語の発音を日本語の音になおすことは、基本的には無理がある。それを、日本語の読み風に、カタカタ表記するのは、もっと、無理がある。
最大の問題は、カタカナ表記されたものから、英語のスペルに至る方法がない。
また、英語の音を、カタカナ表記しているわけではないので、様々な表記に分離するという傾向も存在する。glass は、ガラスだったり、グラスだったりする。元の形は変化していないので、カナ表記だけ勝手に変化するもののある。ルセッサンスが、ルネサンスに。
しかし、このような変化は、日本語の特性としては、普通のことである。だいたい、日本の漢字にすら、ニッポン ニホンがあるのだから、どうということはない。
まことに、自由無碍な言語である。
最近、携帯メールで、絵文字が急速に使われ出している。新しい言語の登場である。
読み方も、音も不明なまま、言葉として流通する不思議さである。
日本人は、文章を判読しながら読んでいる。言葉は解釈する対象なのである。
だから、文字は、パズルのようなものかもしれない。
だから、日本人は、ノストラダムスが大好き。文章を、解釈する。自由に、解釈することができる文章だから、魅力がつきないのかもしれない。


英語を隔離するシステム

アメリカの映画を小さい頃から見てきた。サンダーバード、奥様は魔女、名犬ラッシー、いるかのフリッパー、いろいろあったのに。
ついぞ、英語の声を聞くことはなかった。映画には、字幕というものある。最近は2カ国放送もある。その意味で、英語を聞こうと思うえば、いくらでも聞け る.しかし、意識しなければ、聞くことはない。こんなにも、英語の世界に触れているのに、完璧に、トランスレーションしている。これほどまでに、英語の音 を隔離した国もすごいものがある。
ビデオなどで、録画したテレビ番組が突然、英語でしゃべり出して、びっくりした記憶もある人も多い思うが、こんなにも世界の情報が飛び込んでくるのに、英語の音はまったく、日常から隔離している(フィルターしている)のだ。




日本に民主主義はあるのか
2000年11月 内閣不信任案否決問題を考える。

2000年11月20日から21日 内閣不信任案をめぐって、徹夜の国会となった。
その印象は、日本に民主主義はあるのかという問題である。どうしてそう思うのかというと、実は、政治家は、個人の主体的な意見をもって、行動するrことが できないという問題である。個人の良心、主張が存在しても、それを主張することができない、力学関係の中にある。ここで、不信任を賛成することが、正しい とか、正しくなくということをいうつもりはない。ただ、個人が自由に生きることができない現実が、そこにあるという事実を述べているすぎない。
多数決という考え方が、民主主義のように思われるが、そうではない。一人一人が自由な意見を述べることができ、その結果として、意見の集約が発生して、多数決というところに落ち着くのである。
さて、不信任決議案が提案された9時には、すでに、結果が予想され、そして、結果通りになった。その票決にいたるまで、5,6時間の意見表明などは、いっ たいどのような意味があるのだろうか。ただ、手順として、儀式として、民主党が、自由党が.. という風にやっただけなのだろうか。ただただ、時間の無駄 のような会議が続いたわけである。そういってしまうと、すべてが、そうなのかもしれない。いろいろな法案がきまるのかは、ほとんど、どのような審議されよ うと、成立するかしないかは、事前にきまっているわけでも、ある。その意味で、選挙で議席をどうとれるかが、すべてであるのかもしれない。
再度、問う。一人一人の考え方を表明できない政治に民主主義があるのかという点であり、その表明の撤回させるために、いろいろな駆け引きがされているという現実である。
by kimito kurosawa 11/21/2000


日本が日本であるという名の超法規的力について
郷に入りて、郷に従えという力
日本が国家として形態を保とうとしている力は、個人の自由や権利よりも、日本であることを優先しようとしている力があるかもしれない。
秩序、常識、出る杭、様々な力が、個人の意志に働く。日本語をしゃべること、日本人的容姿であること、元号を使わせること。国家が様々な試験の管理 をしていること。国家の定めた学校をでないと、職業の選択の幅が大幅に失われること。(外国人が医師になれない。教師になれない、弁護士になれない。公務 員になれない。)
これらの力は、憲法や法律より、優先している。この空気のような重たい力が、学校を崩壊させ、家庭や日本経済を押しつぶそうとしているようにも見えてくる。

日本語の時代を変化させないとする力を持っていることについて
尊敬語、謙譲語による日本深層意識への課題
 日本文化の非常に優れた一面を持つの尊敬語、謙譲語という言語スタイルには
 もしかすると、時代を変革する力を阻害しているかもしれない。
 いつも、序列を意識して行動しざるをえないため、変革を産み出す心理的抵抗を大きい。
 社会を統治する手段として、この言語形態が形成されてきているのかもしれませんね。
 人間のパワーを引き出す言語形態があってもよいのではないか。
 例えば、ビジネス用語では、ストレートな関係の言語として、個人を活性化させる言語風土をつくるとか。 
  

ローマ字が言語感覚を麻痺させる力を持っていることについて  小学校でローマ字を学ぶことによって、言語感覚に重大な誤解を受け付けているのではないかと思う。(ローマ字は英語教育をきちんとしてから教育すべきではないかとおもうのだが。)
 日本語は、字と音がかなり対応している言語である。ローマ字はその傾向をますます強力に言語感覚に植え付けてします。言語は字が音を表しているという錯覚のまま、中学生で英語を習う日本人は悲劇的だと思う。
いまでも残る私の中の違和感。
 歩く WALK を ウォーク といい
 働く WORK を ワーク  というのに疑問や違和感を持ち続けた経験はないだろうか。
音韻論的にも、日本語の母音の少なさが、英語の聞き取りを難しくしているという研究がある。聴覚的訓練という問題に加えて、ローマ字は視覚手的、論 理的に言葉の要素(母音、子音)の関係を固定し、ますます、英語などの他の言語の入り口をがっちり閉ざす働きをしていないだろうか。
 この文章入力も、実は、ローマ字入力で作成している。ローマ字が無用とは思わない。言語感覚に誤解を生じさせる時期に習得させることはないだろうと思う。いつでも習える体系付けされているのだから、世界の言語に親しんでから、学んでも全然遅くないと思うのだが。
東南アジア、アフリカなど多くの国で、子供達が自然に英語を話しているのに、日本人だけが、戦前の教育を受けている。いや、明治時代の方が、日本人は英語が読み書きできていたのかもしれない。当時の授業の方が、英語による授業が多かったかもしれない気がするのだが。
日本を知の鎖国と称する人たちもいる。(ここでは一般的な名称 外国人を用いた。)
日本で外国人が日本で生涯の仕事として、なれない(成りにくい)職業の例
大学教授(外国人は大学教師という呼ばれ方をする。)
外国人教授が終身にわたり働ける大学は、上智とICUのみと言われている。
弁護士、医師、公務員(学校の先生を含む)
ローマ字問題では、ローマ字がきちんと出来ない子の方が、英語の出来にくいという指摘もあるようだ。

マンガが世代を分離する力を持っていることについて
子供達の夢を運ぶ マンガ。
その少年少女マンガに、ほとんど、父親や母親が登場しない。子供のヒーローは子供の世界で完結してしまう。しかも、多くの場合、子供の方が優れた能 力をもち、大人の経験や思慮を乗り越えるという設定がますます、大人の世界を無視する世界観が産み出されている。既存の大人社会を否定し続けることで、話 が成り立っている。
アトム、マジンガーZというような世界には、少なくとも、ヒーローの他に、そのヒーローを支える大人達の姿があったように思う。
この傾向を押し進めていくと、本人がすんでいる世代以外には、まったく関心のない世代が存在しているのではないだろうか。小学生、中学生、高校と同世代、同年齢しかつきあない、育ち方が、人生という老若男女への幅広い関心の持ち方が阻害されている。
(おじさんのたわごとになっているかもしれないな。)

団らんである筈の食事風景に一切の会話がない風景より
家族の風景 ファミリーレストランから
ときどき、ファミリーレストランで見かける、何気ない風景。
子供とお母さんが、ほとんど、会話もしないで、子供が、ポケットゲーム機や本を読んでいるのを、見かける。親子でも会話することがなくなってしまったのだろうかと思うのだが。

国民主権を支える税金というシステムで、徴収免除があるというからくりについて
日本の税金は誰が納めているのだろうか。個人商店、個人営業、農家といった小規模経営の人たちの多くが、赤字経営を申告しているし、税金を納めなくてもいいような収入規模であったりする。
日本の税収の多くが、企業や会社の収益に頼っている。しかも、その従業員に税金も企業の収入の一部を払っているかのような、給料の支払いと同時の天引き計算をしている。
国家が企業優先にことをすすめるのは、当然だと思う。収入の多くが企業や会社が国に納めてくれているからだ。
国民主権と言いながら、選挙権という形で権利をあげているように見えても、国家のあり様は、国民主権の行使を国民がする気をうまくはぐらかしているように見える。
扶養家族やパートタイマーの税金控除といった問題も、多くの主婦に無言で、国民として半人前の(税金を支払わない 国家の扶養家族民)として、その権利の行使を無言の内に剥奪しているのではないかと思う。

兵力を国力と考えた時代から、労働力を国力として考えた時代へ 
労働力は兵力を同質か?
現在の国家体制は1940年体制(戦時総動員体制)の上に成り立っているという意見もある。この傾向は、国家の単一化、一元化、価値観の統制化であったようだ。
それ以前、実にたくさんの新聞社があったが、統廃合され、現在の朝日、読売といった大新聞社が作られた。
この枠組みで、サラリーマン、金の卵といった労働力を戦地のいく兵隊のように、工場や会社に出兵させて、経済復興を成し遂げたのでないか。
そして、多様化する価値観、時代の変化の中で、昔ながらの白兵線での戦術で、現在を生き抜こうとしているということはないだろうか。

天皇が文化を統治する。 天皇が、有史以来もってきた力 官位を授ける力
現在の天皇制は、文化の統治に利用されているようだ。文化勲章に始まる、勲章などの文化的階層社会の頂点に天皇を置くことによって、日本で、世界で活躍してきた人たちの前に、勲章という名の人参をぶら下げてしまう。
本当は、もっと自由な活躍ができるので、政府のなんとか 委員 にして、政府の都合のいいことを言わせてしまう。政府や官僚が、勲章を与えるかどうかの決定権を握っているんだから。
日本における 奇妙な文化統治 に、気になることはありませんか。
価値観が、奇妙に、統制されすぎているような気がする。

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