2014年1月29日水曜日

1999.12-2001.2

黒澤公人の世界から   その2

(その1 1998.4 - 1999.12 )
(その2 1999.12 - 2001.2)
(その3 2001.2 - 2002.4)
(その4 2002.4 - Now)
今この時、数十億の人達に、映る世界が存在する。無限の姿を映し出す世界。
同じ物をみても、様々な感じを映し出す。
私の世界を、スナップ写真のように、一瞬の言葉が通りすぎる。それを言葉にすると....


21世紀という未踏の世界を創り出す私たちへ

20世紀という時代を創り上げてきた力はなんだろう。その力は、そこに生きた私たちの人生を突き動かしてきた。
21世紀という新しき世界に歴史という出来事を書き込んでいく力はなんだろう。その力は今を生きる私たちの人生の歴史も創り上げている。私たちを貫くその見えない内なる力の正体を見極め、本当に清きものだけを選ぶことが出来るなら、21世紀は清らかな文明の時代となる。
私たちの内なる世界への冒険の時代である。本当の宝「私とはなにか」に出会う冒険の旅の始まりである。
この21世紀が私たちの本当の宝に出会える時代であることをお祈りします。
              

21世紀の生命力に

生命力。それは、エントロピーという宇宙に流れる壮大な流れを突き進む力。それはあたかも、鮭が生まれた場所を求めて、川を遡る姿に似ている。
同時に、一つの生命からあふれ出た流れは、生命をもって、1000年、2000年の流れを引き起こし、壮大なる歴史、文明を創り出した力。それはあたか も、ナイルの流れのように、小さな小川からはりまり、その小さな流れは、多くの流れを巻き込んで、やがて大河になる川にも似ている.。

生命の力が、無数の生命の誕生を産み出し、無数の死を告げ、大河の流れのように連綿として引き継がれ、人類の理想の世界へ、調和の世界へ旅に突き進む.鮭が、ふるさとの香りをさぐりあてるように。

すべてのものが、新たな世紀に歩みを進めて生きます.新たな生命力を得て、希望の旗を掲げながら、未踏の未来を、かつて刻んだ歴史の続きに、未知なる歴史 を書き記す。その歴史を書きこむのは、一人ひとりの生命力であり、その力は明るい笑顔や明るい声によって、力を得る。人はその力をもって、歴史を産み出 し、歴史を記憶する。

ここに豊かな生命力が湧き出だし、未来を切り開く智慧と勇気を、多くの人々が手に入れることができますように。生命力に託された希望を探り当てる能力をもって。


21世紀の宝物

    あけましておめでとうございます。
   
    掘り当てよう。
    伝説の宝を
    伝説によれば、それは、無限の力をもつという。

    掘り当てよう。
    伝説の宝を

    それは、人間の内に隠されているという。

    その宝の上には、迷路が張り巡らされ、人類の歴史の中でも、そこにたどり着いたものは、まれだという。それも、伝説が伝えである。

    その迷宮の地図も、羅針盤も失われ、その入り口もありかもさだかではない。かつて、たどりつき、宝をみけた人を記した文書も、今はその真偽も不明のありさまだ。

    掘り当てよう.
    確かにそこにたどり着いた人もいたのだ。そして、今も、そこにたどりつくことを目指している人達もいる。
    内なる宝を探しにいこう。
    それは、崇高なる自分との出会いなのかもしれない。
    物質にすべてを超えて、自分の存在を出会うことである。
    
    その迷宮の入り口も、羅針盤も今は、多くの人の努力よって、その道筋が明らかにされつつある。

    あなたの宝。それは、あなた自身だという。
    あなたが、あなたを本当にいとおしく、すばらしく思える存在に至るとき、
    本当の宝、あなただけの宝に出会うときである。

  

ようこそ、先輩(NHKの番組から)(6/26/2000)
NHK番組で、ようこそ、先輩 という番組がある。社会的に活躍している人の出身小学校で、小学生6年生を対象に、1、2日間、授業を行うもので、 その様子が紹介される。洋服デザイナーあり、マラソン選手あり、小説家あり、ゲーム開発者あり、フランス料理あり、その先生も多才である。この番組では、 なにか子供達にやらせてみることが多い。
洋服のデザインをみんなで考えてつくって、ファッションショウをする。
フランス料理を市場まで、いって材料を買ってきて、つくってみる。
オリジナルゲームを考えたり、小説を考えたり、マジックをやったり、実に多彩である。
それを見ていて感じること。それは、先輩から何を感じているのか。自分たちの可能性と信頼。そして、おどろくほどのパワーをだす。小説家を唸らせるような小説を書く子もいれば、洋服のデザインを考えてしまう子もいる。
たしかに、いろいろ未熟でも、その中にある感性を、先輩達が引き出して、力をあたえ、表に出してしまう。その素晴らしさがそこには、ある。
たしかにその先輩達も、その小学校で小学生時代をすごした。その時は、社会的にも成功しているわけではなく、単なる小学生であったこと。そのことが、その授業をうける子供達をみても、これからの未来を信じることができるせいなのかもしれない。

全ての教科書の内容が吟味され、多くの大人の垢にまみれて教科書。ビタミンも、ミネラルも、すべてあらい落とされてしまった料理のように。魅力も不思議もなくなった教科書とすべての答えが書かれた業者の教材。そんな授業を有無を言わさずに押しつける文部省。
だれが、子供に自信を与えることができるだろう。テストでは、自分の能力をすべて順序付けれて。自分の不思議もありはしない。
僅かにあった、可能性も、様々大会、競技会に出さされて、自分の限界をどんどん押し付けられて、一人の優勝者にために、千人の敗北者の山を作り上げて、僅かな才能の芽をむしり取っていく。
だれが、あなたはすばらしいというのだろうか。
だれが、あなたの未来は開けているというのだろうか。
たくさんの子供達を前にして、子供に感動し、その感性を感動し、その個性に眼を見張ることができなければ。一人の優勝者のみがすばらしいのはなく、 1000人に敗北者が、1001人の素晴らしさを、大人が感じることができなきなくて、その大人の持っている疎外の意識の世界に、なやむ多くの子供達は、 行き場を失っているのかもしれない。
全ての人生は、自らの人生の花を咲かすために、あると感じることもできるという。
自由意志という人生を育む、強力な人生エンジンで、どんな人生を突き進むことが出来るだろうか。
そのことを人にではなく、自分に気付けた人が、ようこそ、先輩たちだったのかもしれない。(by kimito kurosawa 6/26/2000)


奏楽堂インスピレーション(音楽はどこに存在するのか?)
(上野公園にある奏楽堂は1890年に建てられて、現在110年の歴史がある。)
5月31日 奏楽堂で行われた音楽会での黒澤に訪れたインスピレーションから
20世紀は文明の爆発の時代であった。しかし、20世紀文明がこれから訪れる21世紀に素晴らしい人類の未来をもたらすとは、多くの人々は考えていない。
20世紀は、文明の爆発の時代であり、輝かしい成果をもたらしたと同時に、2度にわたる、歴史上もっとも悲惨な世紀でもあったとも言える.
人間の素晴らしい未来を導く、21世紀文明があるとすれば、それは、20世紀文明延長線上にあるのではなく、隔絶した扉の向こうにある。
このような文明の断層は、歴史的にもたくさん存在する。ヨーロッパに起きたルネッサンスは、それ以前と以後では、まったく違った文明を出現させた。 明治という時代も、それ以前と以後ではまったくちがったものといえるくらい違っている。江戸時代もまた、以前とは、べつな文明になっている。
しかし、その断層の重い扉を明けるのは、人々の声のあつまり、もしくは、こころの力のあつまりなのかもしれないと思った.
奏楽堂インスピレーションは、私の訪れた、不思議さだった。
音楽には形がない。音楽は、紙にかかれた楽譜なのだ。演奏者は、それをみて演奏している。
建物のように、なにかがあるわけではない。だれかが演奏しなければ、それは、現れない。楽譜をみて、音楽をイメージし、それを演奏する人がいなければ、現れない.
同時に、その曲が、生まれ出すとき、誰かの心を通じて、感じたものを楽譜に表わしているので、前にその曲が存在していたわけではない。
この音楽とは、どこに存在しうるものなのであろうか。この不思議な現象を、どのように考えるべきなのであろうか。
一人の心の中で生まれて、紙に書きとめられたそれは、何百年だっても、再現することが可能なのだ。多くの名曲が、誰の記憶からも忘れ去られても、楽譜が発見されて、曲が再現されることも、珍しいことではない。そして、誰がつくったのかも忘れ去られた曲も、多い。
この存在の不思議さを、どのように表現すべきなのであろうか。
21世紀文明は、どこにもない。まるで、音楽のように。
ある楽譜が発見されても、いままで、知られていた曲の作り方と違っていたら、どんなに名人であっても、容易に再現することはできないかもしれない。 それは、ルネッサンス以前の人に、ルネッサンス文明を理解するのは難しかったりするのと同じだろう。明治時代に西洋の人には、日本の音楽が奇妙に聞こえた のと同じだろう。
しかし、手がかりがあれば、努力によって、音楽は出現する。音楽を演奏する人達の弛まぬ努力が音楽の再現を可能にする。リュートのたくさんの弦を一 糸乱れぬ早業で弾きこなすのにどのくらいの練習があっただろうか。声をだす音楽にしても、どんなにたくさんの練習があったのだろう。
21世紀文明も今は、手がかりしか見えないのかもしれない。そこから、多くの人の努力によって、声によって、心の力によって、21世紀文明が形をあらわすのかもしれない。ルセッサンスのように。
その力が、21世紀文明の扉を開け放ち、輝かしい未来を築くことになるだろう。
それは、美しい音楽のように、形はない。しかし、美しい音楽を生む出すのは、人間が必要だ。そして、弛まぬ努力が、その音楽を美しくする。
21世紀の美しい文明は、美しい人生を生きる努力をする人にから生み出される。それは、人間の可能性への挑戦であり、人間の本質への挑戦である.
現在は、ルセッサンス以前のような多くの人間への限界の枠の中での文明だからである。ルネッサンスの訪れた、あらたな人間の可能性の爆発が訪れようとしている。それは、音楽の様に、一人一人の心にしまわれた不思議さなのかもしれない。


ビジネス日本語の構築にむけて
日本語。美しい言語。数千年の長き歴史をもつ言語。
そのことを大切にしながらも、日本語には、変化を生じさせない無言の圧力があのではないかと、ふと、思う。
尊敬語、丁寧語、謙譲語など、現代人にとっては、ふくざつな言語要素。
明治時代、新しい日本語産みだそうとする動きがあり、多くの変化が生まれた。
全てをローマ字でという提案もあった。戦前、戦後で文章の書き方を大きく変化した。仮名遣いや、カナとかなの表記も随分変化した。だから、すこしぐらい日本語を変えてもいいのではないかという意見には、賛成はしない。しかし、....。
もし、日本語が、日本に変化を起こさせない圧力となっているなら、その問題を考えてみる必要があるのではないか。もしかすれば、平易な文法による、ビジネスや役所の日本語利用という考え方があってもいいかもしれない。
しかし、同時に、そのことによって、どんな影響がでるのかも考えなくてはならない。人工的に整備された言語が、世界的に普及するというのは、難しいことであるし、自国の言語をしゃべることを強制的に停止された国民の悲劇も、歴史の中では、よくあることであるから。
新しい世界観が日本に広がるとき、その世界観に共鳴する言語のあり方も問われるのかもしれない。世界人権宣言など、人類のあり方に言及したものは、新しい世界を導く入り口となった。これからも、より新しい未来への入り口が、多くの場所から開かれますように。
(BY KIMITO 3/6/2000 新潟の女性監禁事件の警察問題から変化を好まない日本の体質を。言語という側面から。常に尊敬されているのか、自分の立場、ポジションを考察しながら、複 雑な言語を駆使しなければ生きられない社会という現実に、生きるエネルギーや、活動のエネルギーを吸い取られているのではないか。また、そのような序列意 識が、人間の平等意識の障害や、いじめ、差別を暗黙の内に助長させる要素を内在させることもあるのかもしれない。本当の平等の世界からは、平等のあり方を 全生活側面から支える、新しい言語概念が必要なのかもしれないと思う。その意味で、日本語のあり方を、歴史を越えて、時代を超えて、普遍的な人類のあり方 の観点から、尊敬語、謙譲語、丁寧語などのあり方を再構築する、言語学があってもよいのかもしれない。本当のすばらしい未来を手に入れるために。簡単な話 ではないことを十分理解しているつもりです。しかし、漢字の成り立ち、語源を、一つ一つ吟味して新しい漢字学を構築した、白川静先生という存在を考える と、日本語の再構築ということを試みている学者もいるのかもしれませんね。一人の人間のなせる技というには、本当に無限の可能性があるのかもしれませ ん。)


影響を与えることについて
いろいろな大学史を触れる機会を得た。多くの人の努力のたまものによって、多くの学校ができてきたことを感じることができた。明治、大正、昭和の激 動の時を、戦争、地震、火事、財成難など、多くの試練に受けて、切り抜けてきた歴史でもあった。さまざまな事情で、今日まで生き残ることのできなかった学 校も多いに違いない。しかし、これほど、多くの学校が、明治という時代に産声を上げたという事実は、興味深い。なぜなら、江戸時代には、このような学校制 度がなかったからだ。しかし、江戸時代の教育は、非常に優れたものもたくさんあった。あの当時として、識字水準は、世界的にみても高水準であったからだ。
多くの大学の母体、特に、女子教育における明治のエネルギーはすごい物がありますね。多くの海外からの人々によって、道を切り開いた大学もたくさんありますね。
ふと、これほど、教育の原点に、基督教があったのにもかかわらず、日本が基督教国にならなかったのが、不思議な気がしました。
しかし、日本は仏教の国でしょうか。神道の国でしょうか。基督教の国でしょうか。無宗教の国でしょうか。新興宗教の国でしょうか。
イエスに従い、ペテロは、逆さ磔で無くなりました。彼も、逃げること出来たはずです。しかし、そうしませんでした。
影響を受けること。そして、その影響が自分の人生と共振してしまうとき、人は、損とか得とかのレベル越えて生きてしまうのかもしれません。
ICUの宗務部の前に、ICUが与えた基督者について紹介する新聞記事が貼ってあった。人間に対する、神に対する希望のみ 一つもって、海外に、山村に、道を求めて名が並んでいた。皆、ペテロに習いての人生を歩んだのであろうか。
信じるが故に。人生の共振してしまうが故になのだろうか。
(by kimito 3/3/2000  宗務部の記事を読んで)


痛みを感じること、それを引き受けること
最近、校庭で遊んでいた小学生を殺したり、小学生を9年間も、自宅に監禁する事件がありました。
かなしい出来事ですね。事件を起こした本人達には、それぞれの言い分があるでしょうけど。
悩んだり、苦しんだりした人生を送ってきたのかもしれないけど、結局は、自分の人生の痛みや哀しみを引き受けきれなくて、暴走してしまった感じがしますね。
悩む時、ちゃんと悩む。苦しむ時、ちゃんと苦しむ。
世界がどのように成りたっているのか、自分の人生を通して感じることが、できなくなっているのかもしれません。
彼らも悩んだり、苦しんだりしたから、そうなったという声も聞こえてきそうな気もしますが、それなら、人間の痛みや哀しみに共感する感性が育っていたはずなのに。
なにかそれが出来ずに、わがままの人生のまま、放置された。なぜ、そうなってしまったかを、簡単にいうことは出来ないかもしれないけど、自分のため に何をしてもいいという感覚がすべてに優っていて、そうすることによって、小さな子供を殺したり、監禁してしまうことによる、相手の苦しみや哀しみが見え なくなってしまう。
この世に生きること。全てをゼロから体験し、世界のありようを感じながら、回りのことを知っていく。人の苦しみも憎しみも、清らかな愛やすがすがしい友情に出会いながら、自分の中になる感性に出会っていく。
回りの世界に目を見開いて、回りを感じる心を養っていく。
子供の時は、親や兄弟と、大人になって、会社で働いたり、家庭を持ったりして、人は、何かの関わりを持って生きる。哀しみや苦しみに出会うために。それは、隣人を理解するために。
愛や友情にも出会っていく。それも、やはり、隣人を理解するために。そして、本当の自分に出会っていく旅でもあるに違いない。
(by kimito 哀しい事件がたくさんありますね。)

人生のスイッチの時に
人生の流れをみると、人生を変えるスイッチがあるらしいのに気づく。
この不思議なスイッチ。
騙されて、傷ついてしまった人生は、なぜか、騙す側の人生スイッチを入れる。
虐められた人は、虐める側に。
虐げられた人は、虐げる側に。
愛された者は、愛する側に。
一人の人生の内に、進路を転換するほどのスイッチが、たくさんあるとは思えない。
そして、このスイッチは、まるで、その人の人生を待っていたかのように、ピッタリとはまり、そこから逃れることが難しいように思われる。
きっと、自分の人生を、死に直面して振り返るとき、マイルストーンのように点在する人生の岐路 スイッチ。右に行くのか、左にいくのか。そのどちらかしか選べない人生。
どうぞ。多くの愛があなたを育みますように。そして、スイッチの時、あなたを励まし、あなたを支え、あなたの自由意志と対話できる時を作ってくれる 友や家族や隣人がいますように。
(by kimito 2/12/2000 )

世界は闇に満ちて
あらゆる出来事が音に満ちているのに。光はなんとすくないことだろう。
太陽と月と星。そしてわずかに火のみが光を出せた。
人は光を求め続けた。
そして、電気の文明を手に入れた。電灯に、テレビ、人間の生活は、夜も多くの光を手に入れた。
しかし、太陽の偉大さは、あの圧倒する光だ。
太陽を神と呼ぶ多くの文明があったことは自然に思える。
神のごとき光。そして、全ての生命を支える光。神といってもいいのだと思う。
太陽が無かったら。人は本当に闇にいきる存在だったかもしれない。
神のごとき光。この奇妙な形容は何を意味しているのだろうか。
神は太陽を越えて、無限の光をはなつ存在なのか。
光は人の内にも、ある。
全ては育む愛が人にはある。その証は、あなたが今、生きていること。
誰の世話や献身がなくて生きて来れた人は誰もいないのだから。
心の中に太陽を。そんなことばもありますね。
人の存在の中に太陽があるのです。光を放つ、人もいるのです。
それを、人はオーラなんてよんだりもします。
聖書にも、ローソクは部屋の隅におかれることはない なんて表現で光を放つ人の存在を例えたりします。
光はあなたの内にあります。たしかにあります。そして、いつか、あなたは、あなたの内に突然太陽のように輝く光に出会うかもしれません。
人を愛する心。子供を育て、育む心。自らの人生を切り開く心。
人類に歴史の中に、大きな光を放つ幾多の先人がいました。
人間の中には、光かがくものが確かにある。心臓や肺があるように、人間を校正する要素の一つとして。
その要素が光を放つのか、闇や哀しみを放つのか存在になるのかは、神から、あなたに与えられた権能である、自由意志が全てを握っている。
あなたが育った環境や教育を乗り越えて、全てのものから自由である あなただけの自由意志が、すべてをにぎり、あなたの人生の梶を切っているのだ。
さあ、あなたの自由意志に出会いに行きなさい。そして、その自由意志は、本当は、あなたの人生をどのように導きたいのか、耳を澄ませてお聞きなさい。
(by kimito 2/11/2000 入試寄せて。) 

世界は、音に満ちて
空気を通して聞こえる音。
空調の風の送る音。蛍光灯の音。パソコンから聞こえる音。車を出す音。飛行機の飛んでる音。
心臓の音。血液の血管の流れる音。胃や腸が動くとと。肺に空気が流れ込む音。
髪の毛の延びる音。細胞が分裂する音。
全ての出来事に音がある。
桜の花が咲く音。朝顔の花開く音。霜柱が土を持ち上げる音。きのこが顔を出す音。
奇跡の音もありますね。
心の中に愛が灯った瞬間の音。
友情が育まれた瞬間の音。
あなたの人生を転換させたその瞬間の音は、宇宙の果てまで、鳴り響くかも知れません。
すばらしい奇跡の音があなたの内に、鳴り響きますように。
(by kimito 2/11/2000 入試に寄せて)

この世の苦難
この世はやはり、苦難に満ちている。病気もあれば、老いもある。そして、死んでいかなければならない。
この宿命は、だれも、避けては通れない。
しかし、...と、思う。
人が死んでいく存在なら、何故に、この世の春を皆、謳歌したいと願うのだろうか。
植物のように、昆虫のように、動物にように、限られた世界の中に生きることを良しとしないのだろうか。
人類の文明もまた、栄華を誇っているように見えても、野に咲く花の輝きに優ることは出来ない などいう、言葉が浮かんできてしまう。
公害、ゴミ問題、放射能廃棄物など、多くの問題を残しながら、栄華というほんのひとにぎりの部分で、文明だ、文化だと、いっているに過ぎない現実があるように思う。
経済という問題も実に、大変は、概念だ。まるで、孫悟空の頭の付けられた”環”のように、地球の付けられた”環”のように人類の方向を牛耳っている。そして、呪いのような呪文が、地球を締め上げる。
人類は、確かに進化を遂げているように見える。かの歴史の哀しみを越えようとしているようにも、見える。と、同時に様々な哀しみを巻き起こしながら、今尚、時の流れを驀進し続けている。
いつか、ユートピアに辿りつけるのだろうか。
いつか、平和な人類に至ることができるのだろうか。
いつか、その到達した平和に、今まで生きた、数百億、数千億の魂は、救われていくのだろうか。
人類に壮大なロマンが、過去に生きた全ての魂に、今生きる全ての魂に、そして、これから生きる全ての魂に、人間の本当の生き方を感じさせ、体験させ、本当の人類の仲間として、ユーとビアに生きることが出来ますように。
(kimito by 02/09/2000)


魂の願い
会話の中できつい言葉に出会う時、文句に出会うと、まるで、コップの中の嵐のように、こころが揺れだしていく。限りない文句が沸き上がり、限りない不満が、押し寄せる。時して、火山の如く、吹き出してくる怒り。
私は、私の主人なのに、わがままな心が私の人生を牛耳ってしまう。私は、冷静に紳士に生きたいのに、怒りの言葉が出てしまう。それは、私の言葉だろうか。それとも、怒りという別物が、私の言葉を取ってしまったのだろうか。
私は、冷静に生きたい。愛に満ちたイエス様のように。慈悲に満ちたお釈迦様のように。人間として崇高な人生を歩みたい。
怠ける心を捨てて。嵐のような怒りの言葉の圧力にも、踏み応える 心をもって、私の人生を私の人生として生きて生きたい。
魂の願い。誰が、不幸になりたいと思うだろう。だれが、憎まれ者に成りたいと思うだろう。
この地上に生をもって生きること。
それは、そよ風の中を歩くようなもの。
それは、嵐の中を歩くようなもの。
それは、雨の中を歩くようなもの。
それは、雪の中を歩くようなもの。
朝、昼、晩、春、夏、秋、冬、晴れ、曇り、雨、嵐、
無限の表情を見せるのが、この世界。私の人生が振り回されない分けがない。
そして、それに振り回されて生きても人生。
それを覚悟で、自らの人生を踏みしめていくのも、人生。
私は、この世界を生きてみたかった。自分の人生の可能性を知りたくて。
私が、いかなる私か知りたくて、自分を試したくて、私は、神様に懇願して、この世界に生まれることを願って、生まれてきたのだと思う。
魂の願い。この世界に生きて、やってみたかったことをやる。自分の人生を踏みしめて。それは、私の中にある 私の理想の私に、この人生の中で出会うこと。
私にも、こんな感覚があったと驚くような、イエス様もあの聖書の場面では、こんな風に思われたのではないかと思える自分に出会うこと。十字架をせお うとも、自らの人生に歩みを進めたあの時を。ゲッセマネで、自らの人生をみさだめたあの時も。最後の晩餐に、自らの人生を見極めながら、杯を交わす、その 時を。
インドで説教をされたお釈迦様の心を
フランシスコのように全てを捨ててなお、喜びに至るこころを。
限りなく、神の心の手がかりが、あちらこちらに、ちりばめられて、人間の可能性を素晴らしさを。
文句を言う心を抑え、本当の生き方を探し、怒りの言葉を発す口を押さえ、慈悲深き言葉を探す。イエス様の最後の言葉のように。
(2000/2/3 by kimito 2000年の願いを込めて。同時代に生きる、人間の素晴らしさに出会うために。白百合の旗をテレビでみた少年の時の私の驚きを、いつまでも忘れないで生き ていこう と思う。隣人もまた、その旗を掲げているのかもしれないのだから。)


空気のように。風のように。
笑顔が、人から人へ伝わっていく。
渋い顔が人から人へ伝わっていく。
不思議な確信が、人から人へ伝わっていく。
誰かの不安が、伝わっていく。
誰かの欲望が伝わっていく。
空気の樹木の枝をふるわすように。
海面に浮かぶ木の葉を揺らすように。
誰もが、この世の不思議な定めに、思い至る。
永遠ではないこの地上の命。
普遍では、社会の変化。
確かに見えたバブルも、今や夢。
1000年も昔に、おごれる者は久しからず と伝わりし。
確かなものにすがりたい。GNPが世界第2位なろうとも、第1位になろうとも確かなものが見つからない。
”定説”や”天の声”や占いに自分を託す。
あなたの内に、素敵な神聖があるはずなのに。
あなたの人生の誕生から、あなたの内に秘められた、あなたがあなたでなければならない、あなたの宝。あなたの神聖さ。あなたが自由意志を行使できる権利。すべての選択をあなたがすることができるあなたの自由意志。この自由意志は、人間にしかない。
しかし、そのたからも地中の眠る宝のようだ。ただ時は、過ぎていく。あなたが、その宝を使おう、使わなくても。
もしかすると、あなたは、自由意志の本当の力をしらないのかもしれない。
もしかすると、その自由意志の本当の力を知っているひとは、ほとんどいないのかもしれない。
あなたが、自由意志の梶のもと、切り開く人生は、あなたの人生の宝。誰にも、替わることのできない人生の宝。あなたのすべて。
あなたが、もし、充実した人生が送れないとしたら、ただ単に、自由意志の使い方を知らないだけなのもしれない。どのように人生の歩みを、一秒、一瞬、産み出していく、その神の人類に託した力。
聖書には、地中の中に宝を発見したものは、急ぎ、家に帰り、全ての財産をなげうってもそれを買う というたとえが、書かれている。
あなたの内に、密かに眠る自由意志。明らかに、その自由意志を使わずに、世間の常識や誰かが言い出した”定説”に人生を委ねてしまう。
あなたの素晴らしさを、あなたが、広げられますように。
自由意志に宿る神聖のもとに、人生が歩めますように。
(by kimito 1999/12/24 クリスマスの礼拝の鐘を聞きながら)

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