ICUには、たくさんの欅の樹が生えている。
樹の皮が、いろいろな形に変化して、樹の模様を作り出す。
これは、かなり高い樹の皮の景色を写してみたら、
なんだかおもしろい感じの写真がとれました。
本来は、樹は垂直に生えている訳ですが、写真の都合上
水平にしています。
言葉の世界へようこそ。日常何気に通り過ぎたその瞬間に、ふと浮かんだ言葉。そんな言葉を書きとめました。私は詩人なのかしら。ラララ! 黒澤公人は、国際基督教大学を2021年3月31日に定年退職しました。
2014年6月27日金曜日
2014年6月26日木曜日
ICU珍百景 深い祈りをささげる聖パーシーの石
何気ない石が突然、ある形に見え出すと、それから、離れなくなる。
ICUを隈なく散策して、見知らぬ石をみつける、佇んで、いろいろ眺めてみる。
すると、突然、深い祈りをささげる聖パーシーの石となって、現れた。
ただの石だったのに。
大学の湯浅八郎記念館の裏庭にそれは存在し、深い祈りをささげているのだ。
世界の平和のために。
あなたには、その深い祈りを感じることができるだろうか?
ICUを隈なく散策して、見知らぬ石をみつける、佇んで、いろいろ眺めてみる。
すると、突然、深い祈りをささげる聖パーシーの石となって、現れた。
ただの石だったのに。
大学の湯浅八郎記念館の裏庭にそれは存在し、深い祈りをささげているのだ。
世界の平和のために。
あなたには、その深い祈りを感じることができるだろうか?
2014年6月24日火曜日
ICU珍百景 こぶたちゃん
ICU珍百景 こぶたちゃん
ICU教会の入り口の表面の樹に、不思議なものがある、
こぶたちゃんと、私が名付けたものだ。
いまのところ、だれも、その存在に気がついたものがいないと思われる。
自然が作り出したには、あまりにも、意図的としか思われない
複雑な造型である。
神の存在を証明しろと言われたら、私は、迷わず、この樹を指差すだろう。
しかも、ICU教会の真正面の樹なのである。
ICU教会の入り口の表面の樹に、不思議なものがある、
こぶたちゃんと、私が名付けたものだ。
いまのところ、だれも、その存在に気がついたものがいないと思われる。
自然が作り出したには、あまりにも、意図的としか思われない
複雑な造型である。
神の存在を証明しろと言われたら、私は、迷わず、この樹を指差すだろう。
しかも、ICU教会の真正面の樹なのである。
ICU珍百景 竜の宿る樹
ICU珍百景 竜の宿る樹
ICUの不思議さに最初に出会ったのは、この竜の宿る樹との出会いであった。
ちょうど、2000年の辰年の控えた1999年の12月頃。
その頃は、まだ、デジカメはあまり普及していなくて、この写真は、
普通のフイルム写真で取って、年賀ハガキの数だけ焼き増しをして
張り付けたというもの。
その時をきっかけに、ICUの不思議にはまり、その後、毎日、デジカメを
持ち歩くようになった。
2014年5月1日に奇跡に出会った瞬間もカメラをもっていたから
撮れた瞬間だった。本当に、黄金に輝いていたのだ。
その後も、その付近を通過するのだが、決して、再現しないのだ。
さて、話を戻そう。
現在は、その樹も大きくなってしまったので、竜には全然見えない。
1999年の12月頃しか、見ることができない風景だったのだ。
ICUの不思議さに最初に出会ったのは、この竜の宿る樹との出会いであった。
ちょうど、2000年の辰年の控えた1999年の12月頃。
その頃は、まだ、デジカメはあまり普及していなくて、この写真は、
普通のフイルム写真で取って、年賀ハガキの数だけ焼き増しをして
張り付けたというもの。
その時をきっかけに、ICUの不思議にはまり、その後、毎日、デジカメを
持ち歩くようになった。
2014年5月1日に奇跡に出会った瞬間もカメラをもっていたから
撮れた瞬間だった。本当に、黄金に輝いていたのだ。
その後も、その付近を通過するのだが、決して、再現しないのだ。
さて、話を戻そう。
現在は、その樹も大きくなってしまったので、竜には全然見えない。
1999年の12月頃しか、見ることができない風景だったのだ。
ICU珍百景 北風と太陽
テレビ番組の珍百景シリーズが大好きだ。
私の方が、絶対たくさんネタをもっているし、優れていると
いつも思う。
ICUは自然の宝庫なので、昼休みに学内を散歩しているだけで
不思議なものに出会ってしまう。
ここ15年の間に撮り溜めた一部分を紹介しよう。
たぶん、100は下らないので、どうしよう。100以上になったらどうしたらいい。
北風と太陽
ある昼休み、本館から教会の方を眺めていると
どんどん変化する雲の一瞬の姿
私の方が、絶対たくさんネタをもっているし、優れていると
いつも思う。
ICUは自然の宝庫なので、昼休みに学内を散歩しているだけで
不思議なものに出会ってしまう。
ここ15年の間に撮り溜めた一部分を紹介しよう。
たぶん、100は下らないので、どうしよう。100以上になったらどうしたらいい。
北風と太陽
ある昼休み、本館から教会の方を眺めていると
どんどん変化する雲の一瞬の姿
ICU珍百景 雪のムーミン
歩いている私に声をかけた。
「わたし、ムーミンに似ているでしょ!」
あわてて、私は、写真に撮った。
私は、ICUの中で、不思議なものによく出会う。
ICUは、パワースポットなのではないかと密かに思っている。
ICU珍百景 ツチノコ
生命の特性
生命の特性は、時間軸と空間軸が存在することだ。
時間軸には、未来を信じる、予測する、意志や本能を働かせる力が必要。
空間軸には、食べ物の取り方、天敵から身を守ること、伴侶に出会うこと、子を残すことなど
空間を把握する能力が必要だ。
もしかすると、個々の生命に蓄えられた知恵や意志というだけではない、集団的意志や知恵を
保存する何かが存在するのかもしれない。3次元的世界観では、ない、未知なる次元での
コントロールが必要だろう。
不思議なチョウの話 4世代で、1サイクルをなし、アメリカ大陸を縦断する。
時間軸には、未来を信じる、予測する、意志や本能を働かせる力が必要。
空間軸には、食べ物の取り方、天敵から身を守ること、伴侶に出会うこと、子を残すことなど
空間を把握する能力が必要だ。
もしかすると、個々の生命に蓄えられた知恵や意志というだけではない、集団的意志や知恵を
保存する何かが存在するのかもしれない。3次元的世界観では、ない、未知なる次元での
コントロールが必要だろう。
不思議なチョウの話 4世代で、1サイクルをなし、アメリカ大陸を縦断する。
神秘の蝶 驚異の大冒険 ~北米大陸5000キロを渡る~
http://www.nhk.or.jp/co-pro/recent/20071025.html2014年6月23日月曜日
奇跡に出会う
黒澤公人 奇跡に出会う
それは、2014年5月1日の6時10分頃 国際基督教大学高校の体育館脇を自動車で
通過しようとするとき、黄金に輝く樹をみたのだ。
その美しさは、驚くべき美しさであった。
国際基督教大学に勤めるようになって、40年近くが経過するが、そのような場面に出会ったことがなかった。
まるで、神が私たちを祝福しているという形容詞が、本当に、似合う一瞬だった。
それは、ほんの数分で、終わりを告げ、また、元の普通の景色に戻ったのだった。
どうして、そのような現象が起きたのか、冷静になって考えると、夕日が、木の葉に
当っていただけなのだ。しかし、それは、いつでもあることだ。
その木の葉は、つやのある葉なので、確かに、日の光を反射しやすいともいえる。
実は、翌日の6時過ぎ、夕日が沈むころ、行ってみた。
単に夕日が木の葉に当るだけで、昨日のような輝く瞬間にであうことができないのだ。
その後も何度も、夕日が沈むころ、そこを、自動車で通りかかったかり、
夕日が沈むのを眺めたりするのだが、あの輝きに出会うことができないのだ。
多分、もう一生出会うことはないのかもしれない。
本当の奇跡だったに違いない。
それを、どのように証明することができるだろうか?
なぜ、自分がであった奇跡を人に証明する必要があるのだろうか?
奇跡とは、人間と神との密かな、繋がりである。
イエス様も、多くの奇跡をなしたが、他言してはいけないといったではないか!
それでも、国際基督教大学の中で、それは起こったのだ。
それも、私の目の前で起こったのだ。
モーゼの目の前で、草がわずかに揺れるという、そんな奇跡ではないのだ。
樹が本当に、黄金のごとく、輝いていたのだ。
もちろん、木全体というわけではなく、一部分だけだったのだが。
いつも、持ち歩いてるデジカメで撮ってはみた。
しかし、私が出会ったその輝きの何分の1しか伝えていないように思える。
そして、今回の奇跡の遭遇に、もう一人遭遇した人がいたことを伝えておこう。
その人は、この出来事を奇跡と呼ばないかもかもしれないが、その美しさに
共に声を上げたのだった。
もし、来年の5月1日の夕日が、ダイレクトにあたるときがくれば、同じ現象が
起きるのだろうかとも、期待している。
あれほどの美しさを、私一人の奇跡の出会いとして、胸に秘めていていいのだろうか?
2014年5月23日 あの奇跡をどこかにとどめておかなくてはと、思いつつ
それは、2014年5月1日の6時10分頃 国際基督教大学高校の体育館脇を自動車で
通過しようとするとき、黄金に輝く樹をみたのだ。
その美しさは、驚くべき美しさであった。
国際基督教大学に勤めるようになって、40年近くが経過するが、そのような場面に出会ったことがなかった。
まるで、神が私たちを祝福しているという形容詞が、本当に、似合う一瞬だった。
それは、ほんの数分で、終わりを告げ、また、元の普通の景色に戻ったのだった。
どうして、そのような現象が起きたのか、冷静になって考えると、夕日が、木の葉に
当っていただけなのだ。しかし、それは、いつでもあることだ。
その木の葉は、つやのある葉なので、確かに、日の光を反射しやすいともいえる。
実は、翌日の6時過ぎ、夕日が沈むころ、行ってみた。
単に夕日が木の葉に当るだけで、昨日のような輝く瞬間にであうことができないのだ。
その後も何度も、夕日が沈むころ、そこを、自動車で通りかかったかり、
夕日が沈むのを眺めたりするのだが、あの輝きに出会うことができないのだ。
多分、もう一生出会うことはないのかもしれない。
本当の奇跡だったに違いない。
それを、どのように証明することができるだろうか?
なぜ、自分がであった奇跡を人に証明する必要があるのだろうか?
奇跡とは、人間と神との密かな、繋がりである。
イエス様も、多くの奇跡をなしたが、他言してはいけないといったではないか!
それでも、国際基督教大学の中で、それは起こったのだ。
それも、私の目の前で起こったのだ。
モーゼの目の前で、草がわずかに揺れるという、そんな奇跡ではないのだ。
樹が本当に、黄金のごとく、輝いていたのだ。
もちろん、木全体というわけではなく、一部分だけだったのだが。
いつも、持ち歩いてるデジカメで撮ってはみた。
しかし、私が出会ったその輝きの何分の1しか伝えていないように思える。
そして、今回の奇跡の遭遇に、もう一人遭遇した人がいたことを伝えておこう。
その人は、この出来事を奇跡と呼ばないかもかもしれないが、その美しさに
共に声を上げたのだった。
もし、来年の5月1日の夕日が、ダイレクトにあたるときがくれば、同じ現象が
起きるのだろうかとも、期待している。
あれほどの美しさを、私一人の奇跡の出会いとして、胸に秘めていていいのだろうか?
2014年5月23日 あの奇跡をどこかにとどめておかなくてはと、思いつつ
2014年6月21日土曜日
生命の定数 存在の定数
生命の定数 存在の定数 (2014年6月21日版)
以前に、生命の定数 存在の定数ということを書いた。
卵や子供の時は、その生活範囲も非常に小さいので、たくさんの数の
生命の存在が可能になるが、それが大きくなると、生活範囲も広くなっているので
存在の数も減ってしまう。
生命の数 × 1つの生命の生活範囲 = その生命の固有の定数
子供頃は、生命の数は多いが、成長するに従い、生命の数が減少する。
しかし、1つの生命の生活範囲が大きくなるので 総和は一定になる。
さて、一つの仮説を提案しよう。
この仮説に登場するのは、他の昆虫などを食べるカマキリなどがいい例だろう。
もし、100匹のカマキリが、一つの卵グループから孵ったとする。
カマキリが、生きていくためには、他の昆虫を食べなければならない。
すべてのカマキリが、全て成虫になることはできないので、
成長のなかで、多くの同胞を失っていく。
その失い方は、カマキリが、他の命を食べる量に反比例するのではないか。
基本的には、2匹のカマキリから生まれた100匹の子供うち、2匹が
成虫になれば、生存の数は維持される。
すると、98匹が、死んでいくことのなる。
この98匹の数は、成虫のなるためのカマキリが他の生命を奪った数に
等しいのではないか。
カマキリに1匹が成虫になるために他の生命の命を奪うが、その生命の数
だけ、同胞の命(ここではカマキリの命)を他の生物のために提供している。
奪う生命の数、失う同胞の命の数は、等しいのはないか?
この数を証明する術はないのだが、基本的構造、システムとしては
成り立っている構造のように思われる。
このことを書くと、じゃ、ライオンは、どうなのという声も
聞こえそうだし、草食の昆虫や動物はどうなのという反論もあると
思われる。
それらの場合は、それらの生命の数、存在の数の方程式が存在するのだろう。
見つけたら、また、書きます。
今回は、他の生命を食べる昆虫の方程式でした。
以前に、生命の定数 存在の定数ということを書いた。
卵や子供の時は、その生活範囲も非常に小さいので、たくさんの数の
生命の存在が可能になるが、それが大きくなると、生活範囲も広くなっているので
存在の数も減ってしまう。
生命の数 × 1つの生命の生活範囲 = その生命の固有の定数
子供頃は、生命の数は多いが、成長するに従い、生命の数が減少する。
しかし、1つの生命の生活範囲が大きくなるので 総和は一定になる。
さて、一つの仮説を提案しよう。
この仮説に登場するのは、他の昆虫などを食べるカマキリなどがいい例だろう。
もし、100匹のカマキリが、一つの卵グループから孵ったとする。
カマキリが、生きていくためには、他の昆虫を食べなければならない。
すべてのカマキリが、全て成虫になることはできないので、
成長のなかで、多くの同胞を失っていく。
その失い方は、カマキリが、他の命を食べる量に反比例するのではないか。
基本的には、2匹のカマキリから生まれた100匹の子供うち、2匹が
成虫になれば、生存の数は維持される。
すると、98匹が、死んでいくことのなる。
この98匹の数は、成虫のなるためのカマキリが他の生命を奪った数に
等しいのではないか。
カマキリに1匹が成虫になるために他の生命の命を奪うが、その生命の数
だけ、同胞の命(ここではカマキリの命)を他の生物のために提供している。
奪う生命の数、失う同胞の命の数は、等しいのはないか?
この数を証明する術はないのだが、基本的構造、システムとしては
成り立っている構造のように思われる。
このことを書くと、じゃ、ライオンは、どうなのという声も
聞こえそうだし、草食の昆虫や動物はどうなのという反論もあると
思われる。
それらの場合は、それらの生命の数、存在の数の方程式が存在するのだろう。
見つけたら、また、書きます。
今回は、他の生命を食べる昆虫の方程式でした。
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